輝庵の長江三峡下り吟行記
               松本 煕 (RSK OB)


「山麓句会」の輝庵、こと松本煕は妻の瑞重と共に平成十四年四月七日(日)から同十二日(金)まで「長江三峡下りの旅」に参加してきました。岡山に本社を持つ旅行会社「アジア・コミュニケーションズ」取り扱いのパッケージ・ツアー。参加メンバー十一名プラス添乗女性の西上さん。僕と瑞重にとっては通算二十四度目の海外旅行。うち中国は三度目ですが初回の出張旅行「香港・広州・桂林」が今から十九年前の昭和五十八年、二回目の妻も同行した「香港・マカオ・広東省」が十七年前の同六十年のことですから、ざっと二昔も前の話。長江(揚子江)沿岸地域に足を踏み入れるのは今回が初めてでした。

最初にこの旅を僕に紹介したのは山陽新聞社OBで同年輩の川島さん。岡山市太極拳協会の会長を務める僕がその上部団体岡山県武術太極拳連盟の理事長でもある彼の事務所を訪れた時のことでした。五年前の退職以来僕は妻と共に毎年三〜四回海外に出かけていますが「六十代は欧米の遠隔地へ、七十代はアジア諸国へ、八十代になったら近郷近在の温泉場へ」というのが僕の旅行に対する基本的ポリシーですから、初めは川島さんの提案にも乗り気ではありませんでした。しばらくして僕の留守中に川島さんから電話があったというので掛け直してみると、彼は持ち前の大きな声で再度参加同行を促してきました。「この旅を成立させるためには最低十人が必要なんじゃ。いま八人集まっとる。あんたと奥さんが参加してくれたら丁度十人になる」。この旅がもしも不成立に終わったら、それはあんたの責任だと言わんばかりの川島さんの迫力には終始押され気味でしたが、参加決定の最大の動機は川島さんが口頭で紹介してくれた、まだお会いしてもいない参加メンバー各位に好印象を持ったこと、加えて旅の最終日が上海になっていたからにほかなりません。上海近郊には僕の老朋友、相崎(さがさき)賢一郎君がおり、昨秋「山麓句会」で上海吟行をやろうという話が持ち上がった時、僕は彼に会って上海蟹を一緒に食おうと期待していたのですが、折からのAPEC国際会議のあおりをくってホテルが確保できず断念。続いて申し込んだ山陽新聞旅行社の「上海・蘇州の旅」が定員に達せずこれまた挫折、という経緯があったのです。

そもそもこの旅行企画を最初に提唱されたのは元山陽新聞社役員、元岡山日中友好協会会長で川島さんの上司でもあった三島伯之さん。僕は川島さんに聞いて知ったのですが、三島さんは上海東亜同文書院を卒業され、曽祖父は三島中洲氏。広辞苑に「漢学者。名は毅(つよし)。備中生まれ。漢学塾二松学舎を創立。東大教授・東宮侍講。著『詩書輯説』『論学三百絶』など。(一八三〇〜一九一九)」と紹介されている郷土の誇るべき大偉人だったのです。この三島さんご夫妻と、東亜同文書院の一年先輩で長く岡山県旭町の町長を務められた山崎さん、その山崎さんの中国語仲間で元銀行員の筆保さんご夫妻、三島さんの職場における後輩で元山陽新聞社常務の廣岡さん、川島カップルに僕と妻、更に川島さんがもう一人勧誘に成功した山陽新聞社OBで僕も親しくお付き合いいただいている江見さんの十一名。ウン、これなら楽しい旅が出来そうだ。僕が最終決断した所以です。

  長江三峡下りツァーに参加した11名     (武漢市)
                          

四月七日(日)第一日 関空〜上海〜重慶

例年になく早々と咲いた桜がもうほとんど散り終えた四月七日午前九時、岡山駅に集合した一行は新幹線「ひかり」、関空特急「はるか」と乗り継ぎ関西国際空港へ到着しました。定刻より少し遅れて午後二時過ぎ離陸したMU五一六便は現地時間午後三時半には上海虹橋(ホンジャオ)空港に到着。日本と、中国の新疆ウイグル自治区を除くエリアとの時差は一時間ですから所要飛行時間はわずか二時間一〇分。ここから国内便に乗り換え長江上流の重慶へと向かうわけですが上海〜重慶の所要時間が二時間四十分。なんと大阪〜上海よりも上海〜重慶の方が空路で三十分余計に時間がかかるのです。まずは中国がアメリカと肩を並べる領土大国であることを実感させられました。

上海虹橋空港待合室で待機中の僕らに添乗員の西上さんからハプニング情報がもたらされました。青島(チンタオ)から飛んできて僕らを乗せ重慶へ飛ぶはずの飛行機がひどい砂嵐のためまだ青島空港を飛び立つことが出来ないでいるというのです。そこで重慶市内で取るはずだったこの日の夕食はこの空港隣接のホテルに切り替えられました。バスでそのホテルに向かいます。周辺には色とりどりのネオンがまたたいていました。韓国の「三星電子」はテレビ広告。ドイツのフォルクスワーゲン現地法人はあのワーゲンのマークに続けて「上海大傘」と書かれています。正しくは「傘」ではなく中国略字体による「傘の上半分」だけでしたけれど。「大傘」は大衆のことだと前の座席の三島さんが教えて下さいました。なるほど。「大傘」=大衆=フォルクスなんだ、と納得。人目を引く電飾看板「熱烈歓迎 北京申奥成功」は二〇〇八年北京五輪の成功を祈るもののようです。
まもなくバスは目指すホテル「華茂賓館」に到着。入り口には三ツ星ホテルの標示があり、レセプションの壁には世界主要都市の名前と現地時間が示されています。「北京」「東京」に続いて「倫敦」は昔日本でも使われていたとおりですが、パリは「巴里」ではなく「巴黎」、ニューヨークは「紐育」でなく「紐約」となっていました。
あまり明るくない部屋に案内された一行にアルマイトだか何だか、とにかくおかずを数品載せたお盆のような食器がめいめいに配られてきました。収容所の食事もかくやと思わせる雰囲気。旅の始まりにしてはお世辞にも豪華晩餐とは言いがたいのですが、乾いたのどには中国産のバドワイザー(麦酎=ビーチュー)が心地よく、空いたおなかには結構イケル中華料理でした。

重慶国際空港に着いたのは現地時間で深夜零時近く、日本なら夜中の一時です。バゲージ・コレクションを待つ間一人の白人が英語で話しかけてきました。「エクスキューズ・ミー。ホエア・アー・ユー・フロム?」。初級旅行英会話集にあるような型どおりの質問だったのでホッとしながら『ウイ・アー・フロム・ジャパン』と答え『あなた方はどこから来たのですか』と聞けば「サイプラス(キプロス)」続いて「スモールアイランド。仲間にはフィンランドから来た人たちもいる」と付け加えました。
僕は『地中海のサイプラスなら知っている。まだ行ったことはないが、エーゲ海のクレタ島やミコノス島、ロードス島、パトモス島などには滞在したことがある』と答えると大いに喜び、奥さんらしき人もニコニコ頷いていました。「明日は長江のクルーズをするのか」と聞きますので『そうだ』と言うと「船の名は」と更に聞いてきましたので、手元の旅程表を見ながら『ザ・ヤンチー(揚子江号)』と答えると「俺達の船とは違うようだ。ともあれいい船旅を!又どこかで会おう」と言って別れました。翌日から二泊三日の船旅。残念ながら二度とこのヨーロピアンに会うことはありませんでした。

四月八日(月)第二日 重慶〜豊都(鬼城)〜船中泊 

モーニングコールにより短い眠りから起こされれば部屋の窓から宿泊ホテルの看板「揚子江假日飯店(ホリデー・イン)」が見えました。假日すなわちホリデーなんですね。見下ろす中庭では大勢の人が太極拳ならぬ太極剣をやっていました。剣を使っての表演です。でもみんなテンデンバラバラ。岡山高島屋別館における僕も参加していた教室メンバーの太極剣の方がよほどピシッとしているなあと思いました。空はどんよりとしています。
重慶。三峡下りの起点として有名なこの街は河川の合流点のため霧が発生しやすく又の名を「霧都」とも言う由。日中戦争時、蒋介石率いる国民党政府が日本軍の攻撃により南京から武漢そしてこの重慶へと首都を移してきたのは年配の日本人にはよく知られている歴史的事実。四川省東部に位置しますが、今では三峡周辺の諸都市も併合し北京、上海、天津と並ぶ四大中央直轄市の一つ。人口は資料によりまちまちですが最新の「広辞苑」には驚くなかれ三千二万人と出ています。
こちらへ来る直前NHKのテレビがこの重慶を取り上げていました。丘陵の街なのでバイクや自転車はあまり見かけず、公共交通手段として有料のエスカレーター(電梯)があること、荷物の運搬として担ぎやサン「棒棒」(ばんばん)が活躍していることなどが紹介されていました。テレビや冷蔵庫など最新の電気器具を天秤棒や割り竹で担ぎ坂道を登っていくのです。

   興亡の歴史を秘めて山笑ふ(輝庵)

              「揚子江」号のデッキ

            
 朝食をすませバスで長江に浮かぶ三千五百トンの「揚子江号」に向かいました。道路際の崖には日中戦争時代に作られたと言ういくつもの防空壕、今では商店に様変わりしている姿が見えました。バスを降り、河川敷を歩き「揚子江号」へと向かう途中大勢の物売りに出会いました。棒棒(ばんばん)が我々の荷物を運んでいます。揚子江号にこの日乗船した客は百六十名。団体旅行中の台湾、韓国、フランス人グループと単独旅行中のアメリカ人一人。日本人は我々岡山県人十二名だけでした。二人一部屋の内部には二つのベッドに洗面室、テレビ、トイレ、シャワールーム、クローゼットがあり、広い窓からは大きなビルのそそり立つ重慶の町並みが手に取るように見えます。やがて出港。ビル群がゆっくりゆっくり窓を流れ始めました。岸辺の岩場では男が一人大きな三角網で魚を掬っています。釣り糸を垂れている人々も。長江をまたぐ高い橋。うす曇の空。緑の山々。急斜面の畑。竹林。椰子林。岸辺の家々。二〇〇九年の新三峡ダム完成を前にこの秋から予定通り貯水が始まればこれらの家々は徐々に水没してしまうのです。

小濁りの長江を船は滑るように進みます。我々日本人グループの部屋は最上階の四階にありますので船底のエンジン音もほとんど聞こえません。前夜の睡眠不足もものかは、僕は持参した双眼鏡を時々目に当てながら、あかず外の景色に見入っていました。

痩せ畠に鍬打つ媼春寒し(輝庵)

昼食は二階のレストランルーム。麦酎で乾杯をした後は美味しい四川風中華料理の数々。飲むほどに酔うほどにグループの一体感は増し岡山弁と笑い声が錯綜します。食後はデッキでビデオを撮影したり、部屋で窓に流れる風景を見たり。やがて船は豊都に着き一同上陸。街の北にある鬼城のある山へはロープウエイで上ります。
鬼城。冥土の世界を示す数々の施設、いわゆる地獄めぐりです。新三峡ダムの影響で豊都の町は水没しますが山の頂上付近にあるこの鬼城は水没をまぬかれるとのことでした。
夕食の後は船長主催のウエルカム・パーテイー。中国語と英語による歓迎の挨拶がそれぞれの団の添乗員により韓国語、フランス語、日本語に訳されマイクを通して流されます。続いてこの船で働いている若い女性達がカラフルな衣装に身を包み、エキゾチックなメロデイーにあわせ笑顔で元気良く踊ってくれました。

四月九日(火)第三日 三峡〜新三峡ダム〜船中泊

  チベットの隣り青海(チンハイ)省に水源を有する全長六千三百八十キロの長江にある三峡とは上流から順に瞿塘峡(くとうきょう)、巫峡(ふきょう)、西稜峡(せいりょうきょう)の三つを指します。いずれも断崖絶壁が迫り水流は速く船上観光する身分には申し分のない絶景ですが古来通行する舟人を悩ませてきた難所でもあります。クルーズ二日目のこの日からいよいよその三峡に差し掛かるわけですが、早朝、かの白帝城を通過するというので、ほとんどの乗客は午前六時に起床、すぐさまデッキに集まりました。辺りはまだ薄暗く岸辺の集落の灯がまたたいています。冷たい霧雨。デッキに吹き付ける風は身を切るよう。
白帝城。僕の月並みな文章表現よりここはやはり盛唐の大詩人李白にご登場いただきましょう。今上陛下ご夫妻が皇太子・皇太子妃時代この白帝城を訪れ「少年時代からお国の三国志や、李白・杜甫らの漢詩に親しんでまいりました」と述べられ、その場で李白の漢詩を口誦されたシーンをテレビニュースで見た記憶があります。僕も高校で習って以来今も折節口にする漢詩のひとつです。

    「早(つと)に白帝城を発す」(李白)

朝に辞す白帝彩雲の間
     千里の江陵一日にして還る
     両岸の猿声啼いて住(や)まざるに
     軽舟已に過ぐ万重の山

 雄渾なる七言絶句。このスケールの大きさは広い国土に生まれた者にしか作れないのかもしれません。軽舟ならぬ三千五百トンの観光船は瞿塘峡(くとうきょう)にさしかかりました。どんよりとした空。万重の山。頂にかかる雲。逆巻く長江の流れ。一番狭い川幅はわずか五十メートル。今一度目を上げれば山頂近く少数民族の墓場が見えてきました。絶壁には通行するための桟道跡としての穴が横一線に残っています。これら桟道といい、万里の長城といい、中国人民の不屈の闘志、粘り強さには驚くほかありません。

          巫峡を行く (揚子江号デッキから)

続いて巫峡(ふきょう)。急坂に古びた民家が建ち並んでいます。上の方には真新しい白く輝く集合住宅が見えます。水没する民家が引っ越す新居なのです。石炭採掘現場がありました。険しい山肌に道を作り、横穴から掘り出したばかりの石炭を長いパイプを通して長江に浮かぶ輸送船にガラガラと落としているのです。長江の流れは泥水に変わりました。前方、川幅が少し広くなった辺り、観光船がいく隻も碇泊しています。ほどなく我々の「揚子江号」も碇泊、みんな中型の船に乗り換え河岸に上陸しました。これから長江に流れ込む支流のひとつ神農渓を訪ねるのです。流れは浅く速く動力船は入れませんので、ここから先は現地の少数民族「土家(としゃ)族」が操る屋根なし小船に分乗します。定員十数名でしょうか。我々のグループは一艘に全員仲良く乗れそうです。現地日本語ガイドの指示に従い、みんな赤いライフジャケットを身につけ三人掛けの横板に順次腰を下ろしました。一艘を操る舟人は六人。四人が長いロープで船を曳きます。あるいは冷たい流れの中に入り、あるいは春泥の岸辺に駆け上がります。滑らないよう草鞋を履いて。
十人以上が乗った船を流れに逆らって引っ張るのは並大抵の労働ではありません。一様に痩せた裸の上半身を大きく前方に捻じ曲げ、肩にかかるロープを懸命に曳くのです。舳先に陣取る一人は時に棹さし、時に竿先の鋭い鉤を迫り来る岩肌に打ち込んで、そのまま手元に引っ張ります。グループの頭目らしい艫(とも)の一人は長い艪(ろ)を操ったり号令をかけています。みんな真剣な表情。笑顔はありません。ぬくぬくとした服装で、左右の景色や舟人の動きに見とれているのが何だか申し訳ないような気がしてきました。

             神農渓を行く小舟

                           客乗せて舟曳く人等春かなし(輝庵)

 再び「揚子江号」に戻り三峡最後の西稜峡(せいりょうきょう)を通過。今度は湖北省宜昌市三斗坪に建設中の新三峡ダム現場を訪ねました。二〇〇九年の完成を目指すこのダムの幅は一九八三メートル、高さ一七五メートル、水量三九三億キロ立方メートル、発電量年間八四〇億キロワット。世界屈指のダムなのです。現地ガイドは「万里の長城に匹敵する世紀の大工事だ」と胸を張りましたが、勿論問題がないわけではありません。百十三万人の人々が先祖代々の家と土地を失い数多の遺跡が水没するのです。世銀もその貸付に反対したダム。五十年先、百年先。長江の大量の泥砂がダムサイトに沈殿するのは明らかです。泥を排出する装置も整えられるそうですが果たしてそれだけで充分でしょうか。もしもテロでダムを破壊されたら下流に位置する武漢、南京、上海などの大都市はひとたまりもないのではないでしょうか。一昨年アスワンハイダムを見学したときと同じ疑問が浮かびました。
ともあれ一段と高くなった展望台から見ればその巨大さが実感できます。日本の技術も貢献していると現地ガイドが説明していました。そういえば帰国してから会った操山高校の同級生で小松製作所に働いた池本憲司君も同社が販売したダンプカーの仕事でこの宜昌市に滞在したと語っていました。

 この夜船長主催による「フェアウエル・パーテイー」が開かれました。それぞれのグループが特設ステージで国別に何か出し物をするのだと添乗の西上さんに督促され、川島さんと僕がカラオケで中国でも最もポピュラーな「北国の春」を歌うことにしました。船長の挨拶に続き、なんと日本人グループがトップバッター。まず川島さんが一番を熱唱すると早くも大きな拍手と「ホーホー」「ヨーヨー」の掛け声。僕が二番を歌い終えるとまた大きな拍手と掛け声、二人で三番を歌い終えた時には拍手、掛け声に混じり「ピーピー」という口笛まで加わりました。続いてもう一曲やれというので今度は日本人全員が舞台に上がり「幸せなら手をたたこう」をみんなで手を叩きながら合唱。一部の観客も手拍子、足拍子を取り「ホイホイ」と応じてくれました。歌い終えた僕は再びマイクを口に近づけ舞台から見て左手の台湾人グループに向かって「謝謝!」とお礼を述べ、次にその奥の韓国の人々に同様「カムサムニダ!」、最後に右手に陣取ったフランス人たちに「メルシー・ボクー」と叫びました。
 次は台湾グループ。何だか懐かしさを覚える曲調。赤のフリースが良く似合う僕より先輩らしい上品な顔立ちの男性の姿も。続いて韓国からきた人々は「アリラン」を歌いましたので僕も客席から日本語で歌いました。合唱を指揮する人は僕とほぼ同年齢と思しきスラリとしたかっこいい人。歌い終えると我々の方を向き「日本のお方、ありがとうございました」と流暢な日本語で挨拶してくれたのが印象的でした。赤いフリースの台湾人、長身痩躯の韓国人、一九四五年八月一五日、日本敗戦の時はどこでどうしていたのでしょうか。彼らも我も、みんな激動の二十世紀をそれぞれの国で生き抜いてきたのです。

    春の宵一期一会の宴かな(輝庵)

  四月十日(水)第四日目 葛州?ダム〜荊州〜武漢三鎮 

 建設中の新三峡ダムの下流には既設の葛州?(かっしゅうは)ダムがあります。ダムの上流と下流では水位に二〇メートルの差がありますのでパナマ運河と同じく閘門で水位を調節します。我々の乗った三千五百トンの「揚子江号」がゆっくりと狭い閘門に入り岸壁の柱にロープを通すと次々に別の船も入ってきました。全部で五、六隻。後の閘門が閉じられ水抜きが始まりました。どこにも渦巻きは見られず、どのようにして水抜きしているのかは分かりませんでしたが、そのスピードは結構速く数分で水位は二〇メートル下がり、観音開きの前方閘門がゆっくりゆっくり開かれました。これでOK。水位はダム下流と同じレベルになったわけです。「揚子江号」が閘門に入り始めたのが午前九時丁度、閘門が開いたのが十時過ぎですから約一時間の珍しい航行ショーでした。
閘門を出れば長江の河幅は一段と広がり泥水がゆったりと流れています。護岸されたコンクリートの上では大勢の人たちが釣り糸を垂れています。河幅はますます広がり、その分だけ遠のいた岸辺に楊柳並木が見えてきました。子供の頃覚えた歌を思い出しました。。

春が来ましたお母さん 
シナの柳は芽吹いても
東洋平和の来るまでは
僕は断じて帰りません

数頭の牛が青草を食んでいます。今度は羊の群れ。あ、一際大きな牛が。双眼鏡で確認します。やはり思ったとおり水牛でした。

    水牛を追ふ少年や柳土手(輝庵)

船は宜昌市を通過しました。大小の船が絶えることなく上り下りしています。工場群。タンク。アパートの住宅団地。送電線。鉄塔。堤防工事中の人々・・・・・・・。
またしばらく航行していると船内にベルが二回鳴り響きました。下船合図です。湖北省荊州市沙市港。桟橋を通って上陸すれば観光客目当ての物売りが大勢いて片言の日本語で話しかけます。物乞いの母子もいました。道路にも年寄りの乞食。今風に言えばストリートチルドレンらしき子供数人も。我々を乗せたバスはガタゴトと走りはじめました。埃っぽい町並み。ごみだらけの路地。ボロ切れを満載した荷車。泥にまみれた乗用車。昔懐かしいオート三輪。現地ガイドの男性がしゃべり始めました。バスはここ沙市から今晩泊まる武漢へと向かう。その距離二三〇キロ。赤いオレンジ、米、綿などがこの湖北省の特産。主工業は紡績業。昔このあたりは楚の国だった。戦国時代の憂国詩人屈原や、「四面楚歌」の項羽、下って三国時代の蜀漢の創始者劉備玄徳などの名前が盛んに出てきます。

    船下りる此処は楚の国春の泥(輝庵)

                     2300年前に造られた荊州古城

  バスは大きな掘割を渡り、戦国時代末期、ざっと二千三百年前に造られた城壁をくぐって城内に入り荊州古城前で止まりました。門前にはお土産屋が数軒。夫婦らしき男女が道端で栗を焼いていました。遠く石段を登る我々日本人グループを見つけた男が横笛で「北国の春」を吹き始めました。誰も気がつきません。男はますます力を入れて吹き始めました。僕が右手でビデオを写しながら左手を振ると夫婦で嬉しそうに手を振って返しました。
見物を終えバスへと向かっていると一人の女性が手を振りながら僕のところへ走って来ます。はて、誰だろう?もう一つの手にはしっかりと焼き栗の袋が握られているではありませんか。ああ、先ほど手を振ってくれた女性か。やっと事態を察した僕に、彼女はニコニコしながらも焼き栗の袋を持った右手をグイと差し出します。買う事にしました。と言うか、買わされてしまいました。値段は一〇元でしたから日本円なら約百七十円といったところでしょうか。中国人はやはり商魂たくましいですなあ。
 バスは広い水郷地帯を走り始めました。水田、用水路、池沼がどこまでも続きます。
どの方角にも山は見えません。
    
千里鶯鳴いて緑紅に映ず 
水村山郭酒旗の風 
南朝四百八十寺
多少の楼台烟雨の中

杜牧の「江南の春」を思わせる風景です。ガイドによればこの辺りはスッポンや食用蛙、淡水魚、蛇などの養殖が盛んとのこと。「百万亀養殖池 ○○村」の野立て看板が眼に入りました。高速道路といってもここの道は木の板で囲った枠に人力でコンクリートを流し込んだだけですから、木枠の継ぎ目がガタンゴトンと響き、バスの乗り心地はあまり良いものではありません。片側二車線プラス事故用側道、中央分離帯はありますが夜間照明設備はありません。
水郷風景が少しずつ消えて、今度は黄色く熟れた小麦畑、花の終わったばかりの菜の花畑、桑畑などが散見されるようになって来ました。養蚕はここ楚の国や春秋時代の隣国呉の国が本場です。呉の人が絹で作った衣服がすなわち「呉服」。遥かな時空を超え、今なお日本の商店街に「呉服屋」の看板が残っています。子牛や羊、家鴨の群れ、高圧線、赤い屋根瓦の農家なども。バスの窓遠く見やれば、あたかもオランダの田園を走っているような気さえ起こさせる風景でした。

      池も狭に家鴨群れいて暮れ遅し(輝庵)

武漢のホテルは天安假日酒店。やはりホリデー・インです。湖北省武漢市漢口にある武漢一のホテルだと現地ガイドが説明していました。さてこの夜の食事は四川風火口鍋。一行十一名は鍋が二つ載ったテーブルの前に適当に座りました。ガイドの説明によれば一つの鍋は激辛タイプ。もう一つは辛味をやや抑えたタイプ。たまたま僕の目の前の鍋は激辛タイプでした。いくら辛いったって時々麦酎を流し込んでりゃあ何ということなかろう。とまあ高を括って、傍らにある容器から野菜や魚をつまんで鍋に放り込みました。皿に山と盛られた鯰の一種のギギは一三〜四センチ、二枚に開いてもなく、生きた姿そのままです。泥鰌と鰻の中間のような魚は流石に腹から割いてありました。大きな鮒は鱗を取り、腸だけ抜いた尾頭付きです。すべてこれ長江の産物。グツグツ煮えてきました。まず野菜を小皿にとって口に入れたら、ひゃあー、その辛いこと辛いこと!六十五年生きてきて、それなりに世界各地の料理を賞味してきましたが、この辛さは別格。残り少なくなった蓬髪が一度に抜け落ちるのではないかと心配し、そっと頭に手をやってみたほどです。

 四月十一日(木)第五日目 武漢市内〜黄鶴楼〜上海

                黄鶴楼

  今度の旅も今日明日の二日だけとなりました。今日は武漢市内観光と黄鶴楼を見学し午後には上海へと飛び立ちます。明日は早朝ホテルを出発、一路岡山空港へ向かうだけですから、実際には「長江三峡下りの旅」は今日で終わりといってもいいかもしれません。
  この街は市内を流れる長江と漢水により三つの地区に分けられています。武昌、漢口、漢陽の三地区で昔から武漢三鎮と言われてきました。武昌は日本にもなじみ深い孫文が一九一一年清朝打倒の口火を切った所。漢口は日中戦争さなかの昭和十三年十月、南京から移転してきていた蒋介石政府を重慶へと追いやり、東京の料亭に「漢口陥落」と書かれた祝賀提灯が掲げられ(講談社「明治百年の歴史」)、岡山では錬兵場で動員された小学生により「祝!武漢三鎮攻略」の提灯行列が盛大に行われた様子が山陽新聞社発行「世相おかやま」に掲載されています。三国志「赤壁の戦い」に因んだ史跡も近くにあり、租界の面影を伝える古い建物も残っていて、自分のポリシーに従えば七十代になって再度ゆっくり訪ねてきたい所でした

  バスはやがて黄鶴楼へ。昔ここでちっぽけな居酒屋を営む老人がいて、ツケで何回か飲ませて貰った仙人が壁に黄色い鶴を描いた。ポンポンと手を鳴らせばこの鶴が空中に舞い上がると言うので評判を呼び店は大繁盛。ある日また例の仙人が現れ老人に「ツケ分はもう払い終わったか」と聞き、正直な老人が「あなたにはもう充分儲けさせてもらいました」と言うと仙人は「それで安心した」と答えるや否やポンポンと手を鳴らし、壁から出てきた鶴にまたがって大空高く消え去った。後に亭主が建てたのが黄鶴楼の始まり。
僕は何かの本でこのように覚えていますが、バスの中国人ガイドは居酒屋の主を老人ではなく未亡人と言っていました。 

     この空に舞ふや黄鶴花曇(輝庵)


  初代の黄鶴楼は三国時代に建てられたのだそうですが、何度か建て替えられ、現在の黄鶴楼は一九八一年に建てられたもの。楼閣から見た長江とそこにかかる武漢大橋が印象的でした。またここにもかの李白の日本人にはとりわけ愛されてきた漢詩があります。

        黄鶴楼から見た武漢市内と長江

  黄鶴楼にて孟浩然が広陵に之(ゆ)くを送る(李白)

     故人西の方黄鶴楼を辞し
     烟花三月揚州に下る
     孤帆の遠影碧空に尽き
     唯見る長江の天際に流るるを

李白の詠んだ「烟花三月」とは勿論陰暦のことですから、僕が今こうして黄鶴楼に立っている今日四月十一日は、まさにその「烟花三月」にほかなりません。あの李白と同じ季節、同じ土地に、今この輝庵が立っているのです!
遠く「天際に流るる長江」を見やれば下流は河か雲か見極めはつきませんでした。

    長江の果ては霞みて天に合ふ(輝庵)

 黄鶴楼を辞した一行はバスの現地中国人ガイドから「ちょっと時間がありますので一軒お土産物屋さんに寄ります。別に何も買わなくてもかまいません」と告げられ、とある建物の前に連行されました。「こんな所よりさっきの黄鶴楼でもっとゆっくりしたかったのに・・・・・」と言っても後の祭り。
出されたお茶をいただき、トイレを借用すれば「何か安いものでも買うか」となるのが日本人の心情です。湖北省名物の米を使った煎餅風のお菓子。一パック三十何元かを三十元にすると言っています。みんな三パック、五パックと買い始めました。知恵のある人が纏め買いするんだから「もっと値切ろう」と言い出し、交渉の結果六パック百八十元のところを百六十元にさせることに成功。みんな喜んで三パック、六パックと買ったのはいいのですが・・・・・・・。 

  店を出てバスが武漢空港に着き待合室で待っていた時、誰かが先の土産物屋で買ったのと同じ煎餅が売られているのを見つけました。値段を見ればなんと一パック十二元。土産物屋で難交渉の末マケさせることに成功したその値段の半分以下なのです。みんな喜んで気を良くしていたのに。ああ、悔しいー。

 午後三時二十五分飛行機はオンタイムで上海虹橋空港へ着きました。今日のホテルは上海国際貴都大飯店。シンガポール系の高級ホテルと聞きました。事前に電子メールでやりとりしていた老朋友相崎君とは午後六時ホテルロビーの約束ですが夕方のラッシュのためか一軒買い物に寄った後のバスが遅れ気味です。渋滞で停車中のバスの左窓にさっきから「上海国際貴都大飯店」の看板が見えているのですが一方通行のためバスはそのまま直進、大分通り過ぎて左折、大分バックしてやっと到着しました。はやる心でロビーを見渡せば「あっ!いた!いた!」。向こうの椅子にもう相崎君が来ていました。「やあ、やあ、やあ」。名古屋で五年前に会って以来です。やがて奥さんも現れお互いに紹介し合いました。男同士は古い付合いながら夫婦連れで会うのはこれが初めてなのでした。

  思えば今から四十六年前の昭和三十一年四月神戸大学に入学、二人とも教養課程は姫路分校(旧制姫高キャンパス)に配属され、たまたま分校傍の同じ学生用アパートに入居したのが相崎との出会いでした。彼は経済、僕は文学と学部は異なりましたが、その他の同居学生五人を含め、みんな親元を離れて初めての独立生活。たとえ川流を汲まず薪を拾わなくとも、同じ釜の飯を食い一緒に風呂に入れば日々に親しさが増していくのは必然の成り行き。中学あたりまで腺病質で神経質で人一倍母親への依頼心の強かった僕にとって、相崎の明るい性格と積極果敢な行動力、どこへ行ってもいつの間にか一座の中心的存在になっているリーダーシップには目を見張る思いでした。神戸キャンパスでの専門課程を終え、彼が丸紅に、僕が郷里岡山の山陽放送に入社してからも、他の仲間も含め姫路、神戸、大阪、名古屋、東京などに集まり、よく飲み、よく喋り、よく会食したものでした。

  彼のお抱え運転手の車に四人乗車。「旅の最終日ともなればそろそろ日本食が恋しい頃かとも思うが、ここはやはり中華料理で如何」という事前のメールに『大賛成』と答えていたとおり車は随分広い駐車スペースのゴージャスな中華レストランに到着。入り口看板には「虹橋天天漁港」と書かれていました。店内も広々としており、いくつもの大きな水槽にはスズキ、アイナメ、真鯛、黒鯛、ニベなどの魚、各種のエビ、蟹、貝類、更に高級魚のキジハタも泳いでいました。席に着くや、彼と奥さんが僕らに同意を求めては流暢な中国語でテキパキと注文。先ずは麦酎で乾杯!美味しい前菜に続いてボーイが網に掬ってテーブルに持参したのは先ほどの大きなキジハタ、網の中でバタバタ暴れています。やがてそのキジハタの中華風煮つけ。四つのお皿に取り分け、僕に頭の部分を勧める相崎夫妻の心配り。贅沢な美味しさ。至福のひととき。会話が弾み麦酎が何本も空になります。

名刺を一枚所望しました。「江陰大洋毛紡有限公司 総経理 相崎賢一郎」。オーストラリアやニュージーランドから羊毛を輸入し、ここで毛織物に加工して日本に輸出する会社の社長なのです。丸紅では羊毛繊維部門一筋に活躍、シドニーにも長期駐在した彼にはうってつけの仕事なのでしょう。聞けば最近二番目の新工場を立ち上げ、今では五百人の中国人労働者を抱えている由。僕が三十七年間勤めた山陽放送よりも社員が多いんだ、と大いに感心しました。
食べ切れないご馳走を残し、車は黄浦江西岸の外灘(バンド)へ。戦前までは日本を含む各国の租界地でした。「犬と中国人は入るべからず」の公園。ヨーロッパ風の建造物群。黄浦江を隔てた対岸の浦東には超近代的高層ビルが林立し、一際目立つテレビ塔が光彩に映えて浮き上がっています。昨年秋APECが開催されたのもこの浦東でした。

 東洋の真珠まぶしく春の旅(輝庵)

  更に近くの「和平飯店」(ピース・ホテル)に入りました。ヨーロッパ風の豪壮な石造りの建物。「一九二九年創立」と彫られています。重厚な扉を開けて中へ入れば昔懐かしいジャズの響き。七十歳前後と思われる中国人のジャズメンが演奏していました。僕らを見ると演奏は日本の曲に変わります。喜んで手をあげるとトランペットを持っていた男がニコリと笑って頷いてくれました。満席の客は大半が西洋人。シャンデリアの下、中央フロアでは正装してダンスをしている人々も。やっと空いた席に座ってビールを注文。オールドジャズの演奏が続き、ゆったりと時が流れていきます。写真集や記録映画、出版物で知る租界時代の上海にタイムスリップした思いでした。

    行く春や上海ジャズの胸に沁む(輝庵)

冗長的駄文陳謝 最終的完読深謝     謝々 再見

          平成十四年春            輝庵(松本 煕)