みんなで語ろう民放史 

 銀座七丁目星が輝くマイクロタワー  民放クラブ 55号

〈一技術者の思い出〉  高林昭三(HBC)

  在京局の、あるいは、地方局の東京支社に勤務していた年配の方々ならご覧になった記憶がおありかもしれない。昭和30年代半ばまで華やかな銀座のネオンにも負けじと輝いていた北海道放送支社の北極星の鉄塔のことを。衛星で世界が結ばれる今では想像もつかない、マイクロ回線が貧しかった時代の地方局の、技術陣の涙ぐましい努力の象徴があの鉄塔だった。

    手動切り換えのマイクロ
  日本のテレビ放送は昭和28年2月NHK東京テレビ局開局に始まり、民放のテレビは同じ年の8月に日本テレビが開局した。NHKか民放かいずれが先に開局するかについては虚々実々の駆け引きがあったらしいが、公共放送の面子を賭けたNHKがともかくも一番乗りを果たした。
  一方の民放は、昭和30年4月、当時のラジオ東京(現TBS)がテレビ放送を開始した。
  東京には民放キー2局が開局したが、他地区の民放は開局準備中で、大阪、名古屋が開局したのは東京に遅れること1年半。続いて開局した わが北海道放送は更に半年後の昭和32年4月1日だった。
 当然のことだがまだテレビは白黒の時代で、放送機器、特に、大電カテレビ送信機、アンテナ、スタジオカメラはアメリカRCA社製などの輸入製品ばかり。今や世界のソニーも当時は小さな東通工で、松下にしてもそんな力はなかった。輸入には外貨の割り当てが厳しい時代で新設局の担当者は通産省相手の輸入手続 きに苦労させられた時代であった。
  メーカー各社は国産放送機器の生産を急ピッチで進めていたが需要に間に合わず、NHKも民放ともに、テレビの制作、送信をほとんど米国製品に頼らざるを得なかった。
  キー局から地方の受け局に番組を配信するための電電公杜のマイクロ回線も建設途中で回線数は少なく、東京から北海道までの回線は、札幌 までNHK、民放と予備回線を含めてわずか3回線であった。
  マイクロ不足をはじめ、技術的なさまざまな困難の中でなんとかして 番組を正常に放送したい、民放初期の技術者の思いを綴ってみたい。

    自営マイクロを決断
  電電のマイクロ回線は、東京から大阪、九州への回線も北海道同様に建設中で、公社はこれらのマイクロ回線網の基地(TRCと呼ばれてい た)を六本木に設置、在京のテレビ局と結び地方局へ送り出していたがNHK、民放ともにマイクロ回線の切り替えは手動でおこなっていた。
  現在のように東京のキーと地方の系列が一本化されている時代ではな い。大阪が3局に、名古屋が2局になったのは昭和33年。福岡と北海道 に2局目が誕生したのは34年。東京の4局化も34年、皇太子結婚の直前である。それまでは、東京の番組は地方ではクロスネットされていた。
  当初は、テレビの放送時問も全日ではなかったりで、マイクロの切り替えが手動でも何とか処理されていたが、NHK、民放の地方テレビ局が急増すると、その回線切り替えの作業が追いつかず、事故が多発して番組が突然中断するなど、民放局では、そのまま営業を直撃する大問題 になった。電電公杜では当然機械化による自動切り替えを検討、推進中 だったが、新設が続く地方テレビ局 の要請に直ちに対応することは到底不可能だった。
  STV開局前のHBCは東京の民放キー2局の番組を選択して受けていたが、マイクロ事故による営業の悲鳴が後を絶たない。この事態にど う対処すべきか、当時の阿部社長と杉山技師長の協議の結果であろうが、 キー2局の番組受けのマイクロ切り替えを電電の手動に頼らず自社でおこなうと決断した。

   銀座に鉄塔を建てよう
  当時、HBC東京支社は銀座七丁目並木通りの北海道新聞東京支社の最上階にあったが、その屋上に自前の鉄塔を立て中継基地を建設しよう というのである。マイクロ回線は、日本テレビと.ラジオ東京の自営マイ クロの2回線と六本木のTRCへ送出する電電マイクロ設備による3回線で、パラボラアンテナを電波障害の無い高さと空間を確保するためにはビルの屋上が鉄塔建設には最適であった。
 . しかし、場所は銀座の並木通り、周辺はネオンが輝く日本の社交街の中心地である。その真ん中に無粋な鉄塔を建てるとすれば何かデザイン上の工夫がなければ笑い物になりかねない。そこでアイディアを出したのが杉山技師長だった。周囲の風景にマッチするように、夜には輝く星で飾ったらどうか。こうして銀座に夜の帳が降りるころ、北極星が鉄塔の頂上で金色に輝くマイクロタワーが出現したのだった。
  鉄塔建設の費用がどの程度だったかは知らないが、その頃の地方局にとっては大変な出費だったと思う。
  テレビ2局との切り替えが自営となって事故は激減した。番組編成も楽になった。営業は勿論、経営陣も技術も問題の解決にほっとしたのは当然である。
  余談だが、杉山さんは、敗戦までJODKの技術者だった。JODKといつてもピンとこない人が多いと思うが、AK,BK,CKに続いたDKは、戦前の京城放送局である。
  戦後帰国され、民放発足に当たっては国会でNHKを相手に堂々の論陣 を展開した民放の恩人でもある。

   鉄塔が実現した二元番組
 支社には既にラジオのスタジオがあって、ラジオドラマ、ニュースの中継などに活用していた。
 昭和33年、そのスタジオにカメラ を持ち込みテレビ番組制作を始めた。
 ミニスタジオの誕生である。毎週金曜の午後、東京のスタジオと札幌を結んで30分番組『東京スタジオ』を放送、北海道に関係のある有名タレントに主演してもらい、まさに二元放送のハシリだった。この二元放送は東京キー局や業界でも話題になり 『週刊新潮』でも民放地方局のユニークな小さなテレビスタジオとして紹介された。漫画家おおば比呂司氏や井崎一夫氏の対談など漫画ともども評判だった。
 だが、このミニスタジオの機器はまだ真空管で、保守の苦労には参ったが、技術一同は懸命だった。
 資料で拾った番組をあげてみると『北海道の夏を生ける』=勅使河原和風。『作家と北海道』=原田康子、八木義徳、戸川行夫。『エルムの園 をしのんで』=松山茂助、宮部一郎。 『当たり屋道産子大いに語る』=川内康範、清水明、近藤日出造。『こ れからの北海道』=村上勇、町村金五、南条徳男ほか。
 政治家、財界人では、篠田弘作、渡辺惣蔵、小平忠、萩原吉太郎など北海道に関係深い各界の人びとが時の話題にあわせて出演している。
 一度だけの試みだったが、ライトバンに機器を積んで手作りのテレビ 中継車を使い東京浅草での歳末風景 『ぼろ市』を、銀座の北極星タワーからマイクロで札幌へ中継したのも懐かしい思い出である。

   VTRデモに「オー!」
 その頃、待望のVTRをアメリカAMPEXが製作。当時のOTVが輸入してこの東京スタジオで民放関係者などに披露された。イメージ オルシコンで撮影された映像が、直 ちにVTRで録画再生されると、一同『オー!』と歓声をあげた。幅2インチの広いビデオテープが走り、録画。再生のヘッドは高速回転で、サーボで精密制御され、真空管で組 まれた大型ラックの機器で、画質も良くさすがと驚いた。
 当時のテレビはスタジオ生番組か映画フィルムなどで、当時ニュースもフィルムで取材、録画といえば、ブラウン管の画面をフィルムで撮るキネスコープ録画、いわゆる“キネレコ"録画で、瞬時の再生は不可能であり、画質も電子録画のVTRとは比較にならないものだった。
 だがまもなく、これも国産化されVTR一号機を東京支社に設置してテスト運用することになった。サブに座る人間が寒くなるほどの冷房を準備したが、この国産VTRは運転中に部品が赤熱、ビル中の扇風機を動員して局所を冷却、どうやら番組を終わらせたこともある。担当者は 冷や汗ものであったが、今では懐かしい笑い話である。
 このVTRはラジオ東京の要請で芸術座とHBC東京スタジオをマイクロで結び、菊田一夫作『がめつい奴』を4時問録画したことがある。

   地方各社は鉄塔見学
 テレビの放送時問が拡大されるにつれ、当然のことながら回線業務も輻輳してきた。マイクロ回線端末機器を遠隔制御することで業務を簡素化できないか、技術陣に課題が与え られた。研究の結果、当時としては始めて、電話線で電源を投入、切断する遠隔制御システムを試作し運用合理化に成功した。
 民放ラジ才局がこぞってテレビを開局する時期だった。民放連主催の勉強会が開かれ先発局の一員として講師を努めたこともある。その一方キー局とは異なる地方局HBC東京支社のテレビ設備がいささか珍しく参考になることもあったのか、開設準備中の地方民放局の幹部が北から南から見学にこられた。応接も大変 だったが、熱心な質問はテレビ初期の熱気そのままであった。
 その後、マイクロ回線は札幌までの問に東北放送が、更に札幌テレビが開局、HBC専用の回線は使用できなくなった。あわせて、テレビのネット系列化が始まった。
 更に民放のマイクロ回線費用負担も膨らみ、プール方式での回線負担が検討されることになったが、各社の利害が絡む大変な問題で、民放連のマイクロ回線協議会で何回となく 討議、推進された。
 電電公社の体制もその後逐次整備 された。回線数も増え、自動スイッチングセンターの機器も完成、機能を開始した。
 それでも、年度は判然としないが忘れられない年始の記憶がある。
 年末恒例『ゆく年来る年』の中継、 HBCの北海道神宮の新年参拝風景はタイミングよく雪も降り始めた。 だが、東京キー局まで上った途端、TRCのスイッチングミスで映像が 切断された。本社技術からの怒りの電話が鳴く響く。新年早々の元旦、電電の責任者にドナリ込みをさせら れた強烈な印象の正月でした。

   北極星よさようなら
 テレビ放送の歴史に多くの想い出を残し、名残り惜しくもあった銀座マイクロタワーの使命も終わった。
 昭和35年4月、タワーは解体された。
 何せ銀座のど真ん中。解体工事は慎重を期したが、北海道新聞ビルの西隣には芸者の置屋があり、鉄塔の解体中に苦情処理の挨拶に出かけた若いスタッフが艶やかな新橋芸者をかいま見て胸を躍らせたのも、解体に伴う楽しい話題であった。
 ミニテレビ局で活躍したカメラの最後の晴舞台は、あの昭和34年4月の『皇太子御成婚大パレード』の中継であった。HBCが担当した青山学院前の中継地点、馬車の上の美しい美智子妃を、一瞬のカット映像でとらえて全国の視聴者に送り出したことでカメラ冥利に尽きたと言える だろう。
 北極星鉄塔の解体は支杜の技術者にとっては大きな歴史の転回点であ った。スタッフ一同は銀座での勤務を惜しみつつ、打ち上げは伊豆海岸でキャンプ。その後、おまけとして 今はなき日劇ミュージックホールの観劇で終わった。
 時は過ぎて、銀座七丁目並木通りの北海道新聞東京支社は、今は改築 されルイ・ビトンのブランドビルとなり昔の面影はどこにもない。
 今度上京したら、裏小路に今でも残る小さい飲み屋を訪ねて、北極星が輝いた頃の昔話でもしたい。
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