みんなで語ろう民放史

 サンテレビ報道部の一週間 

彼等はあの大震災をどう伝えたのか  (民放クラブ56号)

                          インタビュー・構成 山田芳雄 (OBC)

 日目
 1995年1月17日 (火曜日)
 昨夜は帰宅が遅く、あの瞬問、午 前5時46分にはまだぐっすり寝込ん でいた。突然襲った衝撃で、思わず ベッドから飛び起きた。足は思うよ うに前に進まない。目の前を本棚の 書籍が飛んでいく。必死で柱にしが みつく。「おい、大丈夫か」大声で 妻に声をかけた。「大丈夫よ」声の する方を見たが、あたりは暗闇で何 も見えない。ねぼけた頭でも何が起 きたのかは、おぼろげに理解できた、 とてつもなくでかい地震だ。とに かく静まるのを待とう。ただそれだ けを考えていた。わずか2分ぐらい の時間が、20分にも思えた。
 その2分のあいだに、まわりの世 界は一変していた。ほとんどの家具 は転倒、食器類は散乱し、原型を留 めているものは皆無であった。
揺れがとまってまず思ったのは会 社のことだった。幸い妻にもけがは. ないようだ。
とにかく会社に行こう!家の片 付けは二の次だ。
電車は動いているだろうか、橋は 渡れるだろうか、何も分からない。 妻に後を託し、夢中でガレージから 車をひつぱりだした。
 周囲がぼっぼっ明るくなってきた。 須磨界隈は順調に走れた。しかし長 田区に入ると、あちらこちらで煙が 上がり、異様な雰囲気となってきた、 三宮に近づくにつれ、目に飛び込ん できた風景は、かつて見たこともな いものに変わってきた。ほとんどの 建物は崩壊し、残っているものも、 真っすぐに立っているものはない。
 神戸大橋のたもとは、液状化現象 が起こり車が通れない。やむなくそ こで車を乗り捨てる。ただひたすら 会社を目指して歩いた。持って出た ポケットラジオが唯一の情報源だ。
7時半に、何とか会社にたどり着 けた。玄関前でアナウンサーの藤村 と技術の杉田に会う。エレベーター は動いていない。非常階段を駆け上 がる。
 10階の受付まで来て3人は目を疑 った。応接セットはひつくりかえり、 全ての道具は昨口までの態をなして いない。
 放送はできるのか!
 まっ先にマスター室に飛び込んだ。 何と番組は流れているではないか。
 通常番組(VTR)だが、二人の技 術部員が必死で放送を支えていたの だ。11階の報道部室もさんたんたる 有り様だった。とにかくカメラを回 さなくてはと、まず局内の惨状を撮 り始めた。
8時になった。報道部長の八田も 出勤して臨戦態勢がとられ、街に飛 び出すことになった。カメラとテー プ、無線機など必要最小限の機材を もって8時半に会杜を出た。
その頃オンエアーは、地震の特番 に変わっていた。特番と言っても出 勤してきた社員をスタジオに連れ込 み、出勤途上の模様や家の近くの様 子などをアナウンサーとの掛け合い でつないでいくという、急場しのぎ のものだった。
 会社を一歩出たとたん、またまた 我が目を疑った。目の前の市民病院 に次々と救急車が到着し、ストレッ チャーで血だらけの患者が運ばれて いくではないか。液状化でぬかるん だ道を何とか渡り、夢中でカメラを 回し続けた。
 三宮の光景は、まさに悲惨という 一語につきた。ふだん見慣れたビル が、あるべき所にないのだ。戦争は 知らないが、きっと空襲というのも こんなものだろうと思った。頭は真 っ白で何をどう撮ったらいいのかも 分からない。とにかく目に入るもの を片っ端から撮り始めた。
 時折余震が襲ってくる。朝の揺れ に比べればさほど大きなものではな いが、余震のたびに傾いたビルから 落ちてくるコンクリートの塊から身 を守らなければならない。まさに命 がけの取材である。
 ちょうど一本目のテープがなくな った頃、自転車に乗って会社に向か う社員に出会った。これ幸 いとそのテープを彼に託 す。おそらくこれがサンテ レビとして、初めての現地 の画になるはずだ。一刻も 早く届けてくれと、祈る ような気持ちで後ろ姿を見 送った。
 正午ちかく、会社は神戸 大橋のたもとに前線基地を 設けた。ここまで撮影済み のテープを運べば、30分く らいで報道デスクに届く仕 掛けができたのだ。中継車 も何とか三宮に出動できた ようだ。これで一つ問題が 解決できたと胸をなでおろす。
 昼前に長田区に向かう。 火事の勢いは出勤した時よ りはるかに増していた。消 防車が激しく行き交ってい る。消火作業は思うように進んでい ないようだ。瓦礫の下敷きになった 人の救出は一刻を争う。「水が出な いぞ」悲痛な叫びがマイクを通じて 聞こえてきた。そちらにカメラをふ ると、横から一人の主婦が「おじい さんがあの柱の下にいるの、助けて」 と訴えている。一瞬、カメラを回 すべきか、救出に当たるべきか、迷 いが生じた。ともすれば現場の悲惨 な雰囲気にのまれそうな自分を叱咤続けた。
  「俺は報道マンだ。とにかく冷静 になろう!」。
 何をどう撮ったらいいか考えてい る余裕はなかった。目に飛び込んで くるものを片っ端から撮りまくった が、状況レポートだけは忘れなかっ た。
 昼問の取材を終え、6時に社に戻 る。疲れがどっと込み上げてきた。休む間もなくスタジオに連れ込まれ た。アナウンサーの質問に答える形 で、街の様子など見たままを話す。 テレビ局に勤めていても、白分が画 面に出るというのは初めてだった。 ちょっとした緊張の時間である。ス タジオから出るや否や、社の近くの スーパーが食料品を売り出すという 情報が入った。大混乱が起こるので はないか。再びカメラをかついで社 を出る。
 地震発生後すぐ に、街では食料品、 ペットボトルなど が底をついたよう だ。井田本人も家 を出るとき妻に「水 と食料だけは確保 しておけ」といってきた。
 現場に着いたと き、スーパーの前 にはすでに長蛇の 列ができていた。 何カットかをカメ ラに収める。
 残務整理を終え、 家に帰った時には、 日付が変わってい た。食器類の残骸 は片付いていた。妻に感謝。彼女に とっても大変な一日だつたにちがい ない。
 長かった1月17日が終わった。

  二日目・1月18日(水曜日)
 ベッドに入ったが目がさえて、な かなか寝つけない。一日の出来事が 走馬灯のように浮かんでは消えてい く。長田の火事は消えたのだろうか、 あのおじいさんはどうなっただろう (後で聞いた話だが、彼は無事救出 されたそうだ)。眠れないままに朝 を迎えた。また長い一日になりそう だ。
 二、三日は帰れそうもないと思い、 身の回りのものをバッグに詰め込ん だ。寝袋も持って出た。
  8時に会社に入り、特番の制作ス タッフに加わる。取材先のリストを 頼りに、あちらこちらに電話をかけ まくる。被害状況、ライフラインの 模様、親戚の安否などを聞く。これ らは貴重な情報源になった。電話の 中身をそのままオンエアーしたり、 スタジオのキャスターにメモをふっ たり、悪戦苦闘の特番は続く。CM はもちろん昨日から飛ばしたままだ。 部長、デスクを中心に、今後の放 送内容についていろいろ論議。やは りサンテレビとしては「どこに行け ば水が手にはいるのか」「電気はい つ復旧するのか」「電車はどこから どこまで通つているのか、開通の見 通しは?」といった生活情報を中心 にすべきだ、で意見がまとまった。 安否情報は、団体のみ受け付けるこ とにした。個人は「わたしは元気で す」というものに限定せざるをえな かった。とにかく視聴者がサンテレ ビに何を期待しているか、というの が方針決定のポイントになった。放 送の反応は早かった。
 「わたしの家の隣には、水の出る 井戸があります」といった視聴者か らのFAXも続々入ってくるように なつた。これらも貴重な放送素材と なった。
 会議の後は、社内の片付けに専念 する。目茶苦茶な室内は、どこから 手をつけたらよいのか、見当もつか ない。「まあ、ぼつぼつやろうや」 みんな、そんな気持ちだった。
 三菱倉庫が火事だ!という情報が 夕方飛び込んできた。カメラをかつ いで、すぐに飛び出す。目的地は神 戸埠頭だ。昨日行った六甲アイラン ドの埠頭も全滅状態だったが、神戸 埠頭の状況もひどいものだった。
  「これで神戸もおしまいか」ふとそ んな思いが脳裏をよぎった。  
 夜、会社に戻り、家から持ってき たニギリメシで腹ごしらえをする。 残務整理をして寝袋にもぐりこむと、 さすがにこの日は、バタンキューで 寝人ってしまった。

  三日目・1月19日(木曜日)
 村山首相が神戸入りするというの で取材に出る。諏訪山小学校の避難 所、神戸市民病院などの視察に同行 取材。最後に県庁で記者会見し、す ぐ帰京した。たった数時間の滞在で 何が分かるというのだろう。政府の 対応の遅さやなおざりさが何とも気 にかかった。
 三日間の取材で、一応神戸の隅々 まで見て回った。しかし街のどこに もかつての面影はなかった。
 「俺があんなに愛した神戸の街はど こにいってしまったのだろう」。感 傷に浸るのは禁物と分かっていても、 つい気持ちは滅入ってしまう。

  四日目・1月20日(金曜日)
 昨夜も寝袋の中で一夜を過ごす。 家のことも気になるので、目が覚め るとすぐに電話をかけてみた。妻の 元気な声が聞こえてきたので、まず はホッとする。ラッキーなことに今 朝からガスが出始めたという。神戸 市としては一番早い復旧だろう。あ とは水だ。いつになったら温かい風 呂に入れるのか。
 だがもっとひどいところがある筈 だ。朝からライフラインの取材に当 たる。水道・ガス・電市町 村も同じような状況だ。問い合わせ ても「いま全力でやっています」と いう答えが返ってくるだけだ。そん な中で、できるだけ正確な情報を視 聴者に提供しなければ、と気持ちが あせる。
 後日の結論だが、被害が大きかっ た兵庫県の自治体は、住民への広報 が決定的に不足していたため、被災 者は専らマスコミ情報に頼らざるを 得なかったのである。もちろんマス コミ側も完全な情報を提供できたわ けではない。とくに問題だったのは、 情報の過疎地帯ができたことだ。神 戸、西宮の情報は比較的多く報道で きたが、芦屋、宝塚といった周辺の 生活情報は、かなりの漏れがあった。 このことは、救援物資の支給やボ ランティアの派遣にも後日影響が出 たので、今後に課題を残したといえ よう。
 夜遅く家へ帰る。妻が熱いうどん で迎えてくれた。やはり家がいい。今 日はぐっすり眠れそうだ。

  五日目・1月21日(土曜日)
 さわやかな目覚めだった。こんな 気持ちは何日ぶりだろう。朝食をゆ っくり味わい、久しぶりに落ち着い た気分で出勤する。
 菊水公園で仮設住宅の建設が始ま るというので取材に出る。これで避 難所暮らしの人も、すこしは救われ るだろう。しかし問題は戸数だ。避 難所暮らしの人は約23万人、そのう ち何人が入居できるのだろう。寒さ はまだ続く。
 午後からは、フランスから救助犬 が来たというので、西宮まで取材に 出向く。瓦礫の下の生き埋めの人を 捜す能力があるらしい。地震から五 日目、果たして何人の人が助かるの か。

  六日目・1月22日(日曜日)
 今日も救助犬の収材。JR六甲道、 阪神新在家で彼らの活躍を追う。昨 日は結局一人も見つからなかったら しい。今日は果たしてどうだろう。 日がたち過ぎているのが問題だ。瓦 礫の上から懸命に人の匂いを嗅ぎ回 る彼らの姿は、いじらしさを通り越 し崇高な何かを感じる。
 夕方から編成局長を中心にした会 議が開かれた。いつから通常番組に 戻すかが主たる議題であった。現場 取材は大方終わった、あとはライフ ラインの復旧情報がメインの報道に なるが、これはスポットニュースで 解決できる、営業の数字も考えなけ ればならない。論議はあったが「明 日の8時で特番は終了」と決定され た。CMを入れた通常放送が、約1 40時間ぶりに復活することになっ た。
 この140時問の俺たちの放送は これでよかったのだろうか。俺の取 材は問違っていなかったのか、過ぎ 去った六日間のいろいろなシーンが 頭に浮かんでは消えていく。とにか くやるだけのことはやった、という 満足感はあった。時にはカメラマン の枠を越え、アナウンサーの役をこ なしたり、報道デスクの役割を果た したこともあった。しかし地域の視 聴者に100パーセント満足しても らえる放送ができたかといえば、胸 をはってイエスとは言えない。災害 時のマニュアル、報道部の態勢、本 当の地域密着とは何か、サンテレビ として大きな課題を今後に残したま ま、いま特番は終わろうとしている。

  七日目・1月23日(火曜日)
 久しぶりに休みをとった。昼頃 「水が出たわよ」という妻の大声で 目が覚めた。「よし風呂だ」と喜び 勇んで浴室に駆け込む。
 友達に電話をすると、早速手拭片 手にやってきた。風呂の後はビール を飲みながらこの一週間の苦労話ば かりだ。住宅関連の仕事をしている 彼には、また違った苦労があったよ うだ。「復興事業で儲かるんじゃな いの」とひやかしたら、そんな甘い ものじゃないと一蹴された。
 そして一ヵ月が過ぎた
 この一ヵ月間、取材に明け暮れた 井田は、仕事が一段落すると今度は. 取材される側になった。『関西ザ・ テレビジョン』『放送レポート』 『月刊民放』などの記者が、次々と 井田を訪れてきた。彼らは一様にサ ンテレビの活躍を称え、「地方のロ ーカル局がよくここまで頑張った」 と、熱のこもった記事で紙面を飾っ た。
 そして震災から一ヵ月目の2月17 日、テレビ朝日の『ニュース・ステ ーション』が、サンテレビのスタジ オから震災特集を放送することにな った。
 キャスターの久米宏、小宮悦子も 早くから神戸入りして、被災地など を取材したあとスタジオに入った。 井田はこの番組の中で危 険を顧みず取材に当たっ たカメラマンとして出演、 彼の撮った画を中心に 生々しいレポートをまじ えて番組が進められた。
 放送は全国的に大きな 反響を呼んだ。井田は一 躍時の人となった。しか しそれはささいな事だ。 神戸の復興は、まだ緒に ついたばかりだ。壊れた 建物の解体や撤去はまだ 半ばである。インフラの 整備、そして何より大切 なのは、被災者の生活を 守ることである。仮設も 増やさなければならな い。公営住宅の建設、職 を失った人々の対策、す べてが遅れ遅れになって いる。肝心のサンテレビ の復旧もまだ時間がかか りそうだ。
 井田はあらためて地元局の使命に ついて考えた。今からが本番である。全ての仮設がなくなる日は、99年末が目標だが、若干ずれ込む見込み。
 1999年11月10日現在
 震災による死亡者  4569人
 残存仮設住宅戸数  84戸
 (ピーク時戸数  32346戸)

  
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