泣き笑いスポーツアナ奮戦記
-カープを追い続けた地方局-
山中 善和 (RCC)
一九五〇年、広島にもプロ野球が誕生した。セ・パリーグ分裂で生まれた、純粋ローカル球団広島カープである。球団が出来て、次は民間放送の誕生であった。
特訓一回で本番
たしか昭和27年の夏であったと思う。試験官がスコアブツクを示して「カープの実況アナがぜひ欲しいんだ。君、喋ってみて下さい」。実況放送ならぬ、実感放送でテストしようというのである。出まかせに喋りまくった私に、試験官は即座に、 「合格です」。こうして開局まであと一ヶ月、急造のスポーツアナとして採用された。
特訓と言っても広島には指導者もなく、ラジオ東京から坂本荘チーフを招いて本物の実況放送で鍛えられることになった。放送席などなく、 球場のコンクリートのスタンドに同期3人のスポーツアナ侯補と携帯用録音機を持って陣取った。開局と同時に広島対大洋戦ダブルヘッダーが控えている。いやおうなしに音出し しなくてはならない。
当時の、言ってみればローカル都市広島に、NHKや民放の既成アナ が職を辞してまでは来てはくれない。地元採用で少々地方なまりがあろうと、カープの試合ぶりが伝わればよい。坂本講師特訓の最終日、「ああ、君はニュースは読めないが、野球放送は合格だ」とお墨付きを貰ったのが長い長いカープとのかかわりとなった。
開局が昭和27年10月1日、カープ対大洋戦の放送が2日。思えばよくまあと言いたくもなる。ダブルヘッダーを3人のアナが表と裏を交互に担当。スコアはその時、手が空い いるアナが記録。ディレクターもプロデューサーも勿論いない。盗塁の描写も満足にできず、絶句、ハラハラの連続。それでもなんとかこの歴史的?放送は穴を開けずに終わり、素人急造アナにしてはよくやったと新聞が写真入りで報じてくれた。
「全試合、全放送」をキャッチフレーズに始まったラジオ中国のカー プ実況、テレビはまだ無い時代、街を歩けば私たちの実況が流れてい た。床屋もパチンコ屋も大衆食堂もどこもラジオ申国であった。しかし実情は恥ずかしいかぎりだった。放送席の設備もなく、放送専用線もない。その都度電々公杜から技術員が来てつないでくれるのだが、到着が遅れたりトラブルが起きたり、放送寸前まで担当アナは落ち着けるものではない。
それ以上にアナを泣かせたのは放送が始まってもまだCMが到着しなかったことだ。「今、代理店。話は今、まとまった。すぐ行くから」と営業部員。「間に合った、間に合った」と息せき切ってネット裏に飛び込んで来る。手書きの乱暴に書きなぐられたナマ原稿をぶっつけ本番で読んだものだ。コマーシャルは民放の生命だが、当時20歳になったばかりの私に、ぎりぎりまでセールスして、ナマCM原稿を「間に合った。間に合った。頼むよ」と、流れ出る汗を拭いて走って来た営業の人たちの姿は忘れることは出来ない。
愛舌サービス満点の中継
当時の放送権料がいくらだつたか記録も残っていないが、私の記憶では二万円くらいではなかったかと思う。ライン料などを加えて直接費だけで三万円はかかったろうからスポ ンサーの広告料は三万円前後か。これといったスポンサーもなく、文字通り独立採算制でカープ後援会という任意団体が支えていた当時の広島カープにとって、放送権収入は入場料収入以外では大きな財源であり、シビアな要求をつきつけられていたのを覚えている。
あまりにも好き勝手なユニークな実況放送をするので、選手から「あんた、野球がわかっていない」と直接抗議を受けたり、球団からは「負けた時の描写が悪意に満ち感情的だ」と叱られたりもしたが、このあたりは文字通り局と球団がよい意味でコミュニケーションがはかられていたともいえよう。叱られるたびに私は「すべてこれもカープに対する愛情のしからしめるところ、毒舌ならぬ愛舌です」と見栄を切った。
しかし、こっちはこっちでカープの試合のスケジュールや天候不良の時に試合をどうするなど、無料で広報サービスをしたのも事実である。
現に、サービス精神旺盛な私は「8回を終わりまして、3対3の同点。今からでも遅くありません。球場へかけつけて下さい」と呼びかけて球団幹部を喜ばせたり、CMがナマであることをよいことに、カープ 選手にホームランが出た時など間髪を入れず「さあ、ここでグーツと一 杯、OOビールを」とか「カープ勝ちました。今晩は○○ビールで乾杯しましょう」と私なりのCMジョッキーが真骨頂で、スポンサーにもちょっとばかり喜んでもらつた。だがこれも、カープが勝った時には効果抜群で評判だったが、負けゲームになると声の弾みが失われて、球団やスポンサーから「おい、一生懸命喋ってくれ」と苦情も出た。
全試合放送が唄い文句の局だったが、難問もあった。カープ中継といえどもストライキの対象外にすることは出来なかった。組合員を説得するためになんとカープの事務局長が直接出向いて来た。「なんとか中継だけはストを解除して欲しい。それがファンの声だ」。ファンからの抗議電話は鳴りっ放しで、いかに私たちが地域と共にあったかを裏付けてくれた。
余談になるが、この時、プロレスのラジオ放送もストに引っかかり、組合員は局舎の庭でキャッチボールなどしていた。そこへなんと、あの力道山が乗り込んで来たではないか。いかにも力道山らしく凄味をきかせて、「お前ら、プロレスをなんと考えとる、すぐストやめえ」。
球団、ブラックアウト要求
ところで、肝心の球団のほうはもうひとつ経営基盤が安定せず、選手は三等車に乗って他球場ヘドサ回り。給料も遅配気味。前倒しで放送料を支払っていたとも聞いていたが、ある日、球団はなにを思ってか社の上層部にアメリカ方式のブラックアウトを申し入れて来た。すでにテレビが普及していたアメリカでは、入場者が減るという理由で地元局には中継させなかった。他都市へのネットは可という、当時は耳新らしい言葉であったが、テレビならいざ知らず、ラジオのブラックアウト。球団は一体何を考えているのだ。「われらがカープ」、「今からでも球場にお出で下さい」と呼びかけた放送は地元で放送してこそ意味がある。テレビとは違いラジオで中継してるから観客が減るとは思えない。今もってこの真意は掴めない。が、かくしてカープ全試合生中継は途絶えることになった。
しかしへこたれないのはスタッフ だ。一括スポンサーを獲得して深夜11時5分から30分間「今日のカープ」と題する録音ハイライトを編成した。翌朝8時からは「カープ朝刊」という解説者との5分間。ところが、この録音ハイライトにも球団はギャラをと言って来た。たしか数千円だったと思うが、なら国内全試合を中継していた日本短波放送に音源を求めるが安上りと、短波から素材を貰った。今、RCCの50周年を前に、資料整理をしている若い社員が、聞きなれぬアナの声に「これ一体OB のどなたの声?」と聞く。日本短波放送の看板アナだった明海健氏の声が殆どだ。ブラックアウトが解けたのいつだったろう。昭和38年頃であったと思う。
敗戦アナウンサーは……
ここで民放創成期の諸先輩アナに敬意を表しつつ当時のラジオ中国のスポーツアナ奮闘記を綴る。美声の田渕アナは教師出身。私同様の急造アナ。
美声と表現力で女性ファンが多かった。カープが負けると、結びのアナウンスで「勝利投手はOO、敗戦投手はOO、そして敗戦アナウンサーは私田渕でした」と開き直る度胸もあった。田渕アナと私はズブの素人だったが、野球が好きで人一倍のカープファンでもあった。いささか手前味噌になるが、それなりの野球知識ならぬカープ知識はあったし、早口という長所もあった。しかし、やつぱりファンに受けたのはカープ頑張れ放送。一方的なカープ応援、偏向?が人一倍愛郷精神の強い、しかも、広商、広陵時代から培われた野球王国広島のファンに受けたのかも知れない。
殆ど研修らしい研修は受けなかった初代のスポーツアナ、田渕・橋本両氏と私が交代で民放連主催のスポーツアナ研修会に出席したのは放送開始から2年も経ってからであった。
当時の先発民放局スポーツアナと言えば、ラジオ東京の小坂さん、近江さんや渡辺謙太郎さん、鶴田さん。朝日放送には今は国会議員の中村鏡一さんや、相撲の村上守さん。NJB(現MBS)にはNHK出身の香西さん。CBCには民放第一声の宇井昇さんなどキラ星の如くだった。
東京支社転勤
昭和50年、突然の東京支社転勤辞令。多少の知己はあったが初めての勤務地である。しかしあとになって思えば幸運な転勤であった。
赴任してすぐの7月末、妻と近所を歩いているとき、雑貨屋さんのラジオからオールスターの実況が流れ ていた。「山本浩二に続いて衣笠も打った。赤ヘル、アベックホームラン!赤ヘル勢に勢いあり」この放送を聞いた翌日から、私は「ひょっとすると…」という、なにかを感じとった。
オールスター後カープは期待通り星を重ねた。通勤途次に駅で求めるスポーツ紙も楽しかった。TBSやLFでのラジオのカード選定会議でもカープ戦を第一予備にすることが増して来た。そのうちTBSテレビの編成からも「カープ優勝時の日本シリーズの放送独占権について、地元局としてフォローを今から」と依頼がきた。
支社次長兼報道部長という肩書きを貰っていた私は、国会取材をなおざりにしてまでも夢のカープV1にむかって走った。
東京でのゲームごとにカープの常宿、両国パールホテルに足を運び、重松良典代表を訪ねた。時には東京駅や羽田まで出迎え、カバン持ちもした。時にはTBSの重役お揃いの席に重松代表を誘った。が、東洋工業の総務課長も経験し数理に明るい重松氏は、9月下旬既に勝算あってか独占放送ギャラについてもきびしい数値をはじいていた。民放、NHKをにらんで優位に立った構えで本心はあかさなかったし、今日あるのも苦難期のラジオ放送に支えられてという心情論は通じなかった。
幻に終わった後楽園の生カメ
もう間違いなかろうと思われた10月に入ると、次なる大仕事はXデーの想定と、その対応であった。本杜からは数多くのケースを考えて東京支杜へ当然のように指示がきた。 「10月12日、対巨人戦後楽園球場、デーゲーム、絶対に東京支社の力を借りなければならない」。
勝敗表。とにらめっこしていると、益々もって後楽園のGーC戦が浮んでくる。そこで古葉監督の胴上げ、カープ初優勝。ひょっとすると、幸運にも目の前でそれを見ることが出来るかもわからない。そういった期待の反面、この歴史的な場面をどうメデイアで処理するのか。
後楽園球場は聖地である。日本テレビ以外如何なる局も巨人戦の中継 は許されない。「なんとか崩せないか。広島県民悲願の優勝、単なるスポーツ放送ではない。広島にとっては原爆以来の、うって変った明るいニュース。この試合に限って生カメを入れさせてほしい」。が、正直言って不可能な話。最後の妥協は「生カメによる全試合の中継録画。これなら放送でないのだからよいでしょう」。旧知でスポーツアナの大先輩でもある越智日本テレビ運動部長との根回しも終わり、そこまでは大成功だった。10月7日夜のことである。
機材と技術はTBS映画社に頼んだ。たとえ、その録画がTBS系列に流れるとしてもTBSそのものではあまりにも刺激的であるからである。
ところが10月13日、優勝の前々日である。越智さんからの電話で「至急、後楽園に来ていただきたい」。
ハイヤーをとばして球団応接室に招かれた私に、おもむろに越智さんが口を切った。「山中さん、たとえ録画でもこの球場に生カメを許可するわけにはまいりません。先日の話はなかったことにして下さい」。と前言をひるがえした。現場の長と読売新聞事業部中枢との考え方に違いがあり、球団ならびに日本テレビとしては生カメ4基と中継車は認める訳にはいかないとい うのである。越智部長の苦渋の表情。この会談で発言したのは大部分は読売新聞幹部四氏だったが それぞれの厳しい表情を、今でも忘れることは出来ない。
納得いかない私はすぐ本杜に報告すると同時にTBSにも加勢を頼んだが、社としての態度は「長い目で見よう。ここで後楽園球場や日本テレビとこじれると今後に影響する」とまるで今の日本の政治のどこかの決着のような雰囲気で落着した。しかし、あの日の無念さは今でも忘れられない。
アナ出身の柔軟な越智部長の英断には感謝の思いでいっぱいだったが、そう甘くはなかったというのが数日経っての思いだった。すべては幻であった。
昭和50年10月15日
日本晴れというのはこういうのを言うのだろうか。水道橋から見上げた秋の青い空。
本社から20数人ものスタッフがやって来た。歴史的ラジオの実況放送を担当するのはエース野隆紘アナウンサー。広島向けの単独ローカル放送だから、優勝でもしたら思いっ切り泣くがよい。
あの日、昭和27年10月2日からカープの優勝を夢見てきた方言丸出しアナも44歳。
だがまだ喋れる。そんな自負もあつた。テレビ録画放送がパァとなっていささかやけっぱちの私は、その日とんだことを思い付いた。「自分の声でカー優勝の瞬間を録音しておきたい」、天が与えてくれた絶妙のチャンス。こっそりと支杜のデンスケを持ち出し、スタンドの片隅に陣取った。
私には当日するべき仕事があったろう。職場放棄である。
《どよめいています。東京水道橋は、後楽園球場。今日ばかりは、巨人ファンもカープ初優勝に声援を送 っています。4対O、カープリード。あとワンナウト。バッターは柴田 (中略)ああ、やつたぞカープ。昭和25年1月15日、原爆投下から5年。 復興いまだしのあの錬兵場跡の市民球場で産ぶ声をあげて26年目、カープ初優勝!石本初代監督。ラッパの応援団長、白石さんやらモっちゃん(人気者だった長持選手)、そして当時カープ解散の危機を救った多くの広島のファンの顔。顔。顔。胴上げをされる古葉監督にディゾってまいります。もう喋れません。泣けて.まいります。故梶山季之さん(大のカープファンだった)の奥さんが遺影をもって私のうしろに陣取っておられます。カープ優勝。お目出度う》と。私の名?放送。幻の放送である。
職場放棄で叱責問違いなしと支社に帰ると、なんと、同僚が先に持ち帰ったあのテープが支杜で流されているではないか。
お祝いにかけつけて来た系列局や代理店の皆さんで狭い社内はゴッタ返していた。「よかった。よかった。山中さん」。
その日から又25年が経とうとしている。
さてお終いに、忘れえぬ二人の話をしたい。
昭和43年、球団結成以来19年目にカープのA級入りを果たした故根本睦夫監督は、球団のPRにも心を砕いていたが、ある時「ローカル放送というのは球団とともに徹底しなきゃあ」と私に語ったことがある。この言葉は今も忘れられない。
もう一人は、今もその数秒の声が私のお宝であるマリリン・モンロ ーo
昭和29年、ジョー・ディマジオが新妻を連れて私たちの放送席に来た。なんと隣にあらわな太ももが。えもいわれぬ香りも漂う。
マイクを向けてハッと気がついたら、録音ボタンが押してない。後の祭だった。「サンキュー、サンキューベリマッチ。アリガトウ、アリガトー」だけ。
今も私の秘蔵のカセットである。