みんなで語ろう民放史
地域に密着した青森の朝を
『RABニュースレーダー』の苦闘
森田 和穂(RAB)
秋が深まると社内各部は年末年始を控えて慌ただしい時を迎える。この年、一九六九年(昭和44年)もご多聞にもれず日に日にせわしさが増していった。11月は社の定例幹部会議の月、その年度の業務の見通しや 各局の報告に加えて新年度、業務計画が策定される。
当時の報道制作局は報道部12名、ラジオ制作部とテレビ制作部が各9名、アナウンサー集団の放送部17名、美術部6名、CM部10名、制作技術部14名、管理部門を入れて総勢80名を超える大所帯だった。局長の須藤さんは、巨躯馬車ウマのようなスタミナとバイタリティの持ち主で、そ
のずば抜けた行動力と指導力でわれわれ制作集団のトップを走っていた。あの叱咤激励の声がなつかしい。
11月、幹部会議後の局内部長会で須藤さんがニュースの強化、ワイド化についてチラリと述べた。出席者
の反応は複雑で「単発ならともかく、現状でも精一杯なのに枠を拡げて、しかも帯の生出しになると容易ではない…」。互いに顔を見合わせた。
須藤さんの背後には、社設立以来の筋金入り新聞人小沼専務、渋谷常務の顔がみえる。後ずさりできる状況ではなさそうだ。
一九六六年4月に開始したカラー放送も、当初はネット番組に限られていたが、二年後県内のカラー受像機が三万台を数えた段階で白社制作番組のカラー化に踏みきっている。カラー中継車の導入、自社制作番組のカラー化、カラー現像機の設置、社はあげてカラー一色に染まりつつあった。
新社屋のカラースタジオや機材の総投資額は、ざっと見ても二億四千万円。当時の地方局としてはかなり思い切った投資だったに違いない。
自社制作の強化、だが……
機材が整備され扱いにも習熟してくれば、次は白社制作の強化拡充に目が向いてゆく。年が明けてからの幹部会議では、ニュース番組の強化について熱のこもった討議があったと聞いた。須藤さんの話では、4月開始で、朝の生放送だという。
ラジオ時代からの調査でも、県民 のRABに対する期待度は各分野でNHKを凌駕していた。
テレビでは朝9時を過ぎるとほとんどの時間帯で圧倒的な優位に立っているのに、朝7時から9時までは魔の時間だった。朝を強くしたい。
それは、青森放送全員の思いだった。なにをぶつけたら勝てるのか-県民の期待に応える鍵は掌中にあった。だか、現場は別だ。4月では余りにも準備期間が短い。
最大のネックは人だ。須藤さんに私は必要な数を指を折って見せた。
「PD,FD、カメラ、カメコン、音声、記者、美術、写植…それに、メインキャスターとアナウンサー。少なくみても13名。それも、毎日で早朝。5時出社なら午後1時で勤務明け。毎日ローテーションを組んでのやり繰りは大変です」
「―」
「ニュースはどうします。前の晩に編集しておかないと問に合いません。現像も本数が増え、美術も写植テロップ制作も人手不足は免れません」
「―」
「大型の制作番組が入ったとき、これまでのように前日仕込みとはいかなくなります」
「――」
青森放送はとにかく白社制作の多 い社で、レギュラーの他に、社として、地域密着の行事やイベントに積極的に参加実施していた。それが励みでもあり活力の源でもあった。
新番組も、趣旨には大賛成だが、ネックが多過ぎる。不安だ。
4月は人事異動の月だが2月末に内示する。業務の引き継ぎや異動の
心構えをさせるわけだが、その内示で驚いた。制作部長のポストに私の名前がある。部員は14名、ラジオとテレビの制作を一緒にした制作部は部長が一人になっただけで、部員数はそのままだ。ほかに美術部とCM部が合体して新名称は造形部。この名称は社内公募で決めたものだが、社員に参加意識を持たせ、変革の下地を感じさせるには的を得たアイディアであった。造形部と一口にいっても、美術やCM制作、制作セクションのカメラマンや現像までを含む多機能集団で、余談だが、新人佐藤元伸こと、かの、いなかっぺいも、ここでしごかれた。
この組織改革は人手不足解消の苦肉の策で、私も須藤さんに、「物でいえば使い回し、機械でいえば互換性のある方法です。部員もラジオ、テレビ両方の勉強ができる」などと言った手前もあり、なにがなんでもやるしかない状況に追い込まれてし
まった。
地域密着こそ放送局の生命だ
番組の主体はいうまでもなく地域密着のニュースだ。ニュースでどれだけのスペースが埋められるか。
ニュースは10分枠でも天気予報があるので実質6分前後だ。5分だと3分あるかなしか、3項目か4項目しか伝えられない。定時枠は昼、夕方、夜とあるが、一本にまとめると量としてはなんとかいけそうだ。リピートも、その後をフォローすることで一味違ったものに仕上がるのではないか。そんな報道と制作部との討議の中で大きく浮上したのが東京支社が取材する県外からのニュース素材の存在だった。
東京の報道部は4名。取材先は、大阪、名古屋、仙台、時には札幌にまで及び県関連のニュースを追っている。特に、県出身者の活躍や消息にスポットをあてた映像には新鮮な県外の匂いがあり、視聴者の反応もよかった。この県外版の充実は番組の目玉になる。ニュースは県内ものと県外ものとの二本柱でゆくことに落ち着いた。
同時に報道部は、県内67市町村のうち56市町村に取材協力員を配置、キメこまかな取材網を張りめぐらせ
た。役場の職員から理髪店、電気屋さんまで、職種も多彩なら送られてくる情報も彩り豊かだった。
二年前、他杜に先駆けてすべてのニュース枠カラー化に踏みきったパイオニア精神を生かしたかった。
一分でも早く、時間枠の設定
新番組は午前7時から8時までの一時問というのが須藤局長が示した
大枠だ。当時の朝の編成は、NTV発の『朝7時のニュース』『スポーツニュース』『おはよう!こどもショー」の後、ようやく8時になって自社制作の『東奥日報ニュース』の5分だった。その上、番組カラー化の過渡期だったため『おはよう!こどもショー』はモノクロだった。裏のNHKはニュース、天気予報の後ローカルの『青森県のみなさんへ』『スタジオー02』と続く。視聴率は45%対26%だったのが、前年の秋には40%対19%にまで落ち込んでいた。自社制作でもこれ以上悪くはなるまい、そう思うと気が楽になる。
まだラジオ部長の身分でありながら新番組構成の模索が続いた。構成案に対し幹部会議から何度ダメ出しがでたことか。
基本フォーマットが決まった。
▽ オープニング
▽ 朝七時のニュース(NTV発)
▽ スポーツニュース(NTV発)
▽ 天気予報
▽ RABニュース
▽ RAB県外ニュース
▽ ニュースを追って
▽ 天気予報(概況を含む)
▽ ニュース解説
▽ けさの話題
▽ クロージング
その頃の番組は正時とか30分とかに始まるのが常識だった。しかし、7時丁度にいきなりネットニュースとNHKがぶつかるのはどうも面白くない。放送開始時間の一番乗りを考えよう。テストパターンを一分早くやめて、空いたステブレをキャスター、アナウンサーの顔出しオープニングにすることには何のためらいもなかった。6時58分放送開始。
今では、この枠外し編成は各局で多用されているが、『ニュースレーダー』はこの点でも先駆者だった。
持てる力を結集して
キャスターには人社以来報道一筋の吉備報道部長、アナウンサーにはワイド生番組で度胸を培った小島アナの起用が決定した。
3月の半ばまで、スタツフの起用であれこれ思案の毎日が続く。
テレビはラジオと違い総合力がものをいう。特に長丁場の番組ともなればチーム・ワークが欠かせない。
報道部はこれまでは定時ニュースの取材、送出にウエイトがおかれ、スタジオでの制作にはあまり縁がなかった。ここ一番では硬派の大型番組も手掛けるが、こうした日常処理をともなうワイド番組は苦手だ。
そこで、報道部の担当はニュースの編集、原稿作成、素材の持ち込みセッティングまでとした。
アナとキャスターは本番前に下読み。映像の内容まで確認する時間も
なく本番突入ということになる。
三ヶ月後、番組が60分から80分に拡大された時点で女子アナを起用、小島アナの負担は若干軽くなった。吉備キャスターは報道部長との二足のわらじ。前夜の編集の指示やプレビューで流れは頭に入っていたが、小島アナはほとんどぶっつけ本番でカメラ脇に無愛想に立っているエア・モニにちらちら目をやりながら、トチリもせず読み通した。CM直後にはインタビューや企画コーナーが待っていた。たいした男だった。
デイレクターには要となる3人を選び、下に若手のサブを配置した。週6本を、一人が2本担当することになる。技術部も新設の造形部も、朝用のスタッフをローテーションで確保できるメドがつき、全体の整合性は私が受け持つことになった。
さらに大事な問題があった。膨大な制作費をどうやって獲得するか。予算の分捕り合戦が始まる。社内の知己同士でも半ば冗談に〃仁義なき戦い〃と自潮する3月であった。
ニュース部分は時間が大幅に増えるので、取材費やフィルム代の増額は可能だろう。フィルムが増えれば現像費用も上がるが、これも、説得の範囲だ。
制作部からは、出演料や交通費、 出演者の宿泊費などを概算で計上、交渉に臨んだ。渋い面の経理には、経費はかさむが、カットされる番組のネット費やマイクロ回線料が浮くではないかと力説したり、設定したPT枠の販売収支計画をもとに膝詰め談判、ようやくメドをつけた。
社史には、月六百万円の制作費とあったがニュース取材を含む総額の数字なのだろう。それにしても奮発したものだ。
かくて、全国で初の、早朝、全面カラー生放送のニュースワイド番組スタートの下地が整つた。
いよいよスタート
―白紙のタイムテーブル
放送開始は4月1日と決定した。 一九七〇年。大阪万博の年である。
週半ばの水曜日。これも型破りだ。 三日前の日曜日には、放送スタート後の時刻に合わせて全員が出社。本番さながらのリハーサルで早朝放送の緊迫感を肌で感じとった。
別表のタイムテーブルはスタートの週のものだが、二週間前出稿のため校正が問に合わず、決まつていた『県外ニュース』以外は白いまま、試行錯誤の往時がしのばれる。
4月1日。放送開始。この日を期して仕込んだニュースや企画もので
鮮度のいいメニューがそろった。
だがなんたる不運か。前日の3月31日、日航機よど号ハイジャック事件が発生、視聴者の関心はそれに釘付けになってしまった。オープニングではやばやとこのニュースに触れ、「くわしいことはこの後の『七時のニュース』で」と逃げた。しかし、地元のキャスター
が放送開始直後に一言触れることができたのは以て瞑すべし。説得力、親近感に満ちた第一声ではあった。
幸か不幸か、犯人の中に八戸出身の爆弾男・梅内がいるらしいと共同通信が配信。緊迫感のある、生ならではの進行になった。ここで企画ネ
タでははなから勝負はみえている。苦労して仕込んだ報道の担当は砂を噛む思いだったに違いない。
4月6日月曜日には早くも生中継を試みている。この日から始まる春
の交通安全キャンペーン行事、県警白バイ隊スタートの模様を県庁前から中継。人の遣り繰りに四苦八苦なのに、放送開始からわずか一週間目の中継車出動だ。呆れるほどの挑戦魂といわざるを得ない。
放送開始二ヶ月後の6月15日には番組を80分に拡大。これを機に女子
アナを登用、天気予報、ニュースのやわネタのほかに生コマまでこなすという忙しさになった。
この年だけでも生の入中は7回を数え、元旦にはなんとモノクロ中継
車まで動員して、青森県で一番早く初日の出の拝める八戸市館鼻の岸壁と青森市内の神社の初詣を入れている。衛星が常識の現在ならいざ知らず、当時の中継は多段中継で、マイクロひとつ通すにも人員勘定の必要な時代だ。よくやったものである。
当時の進行表をみると、パリ在住の県出身の声楽家野呂妙子さんや、
ホノルルの県人にまで電話インタビューを試みている。
ほろ苦い思い出
シンプルだったバックのパネルも年明けからは高さ2メートルを超える大レーダー画面に変わつた。制作した上崎君によると、レーダーは巡視船「おくしり」のもの。写真撮影したモノクロフィルムを紙焼きし、美術のベテランに彩色してもらったものを再度撮影、ネコ(NEC0)という手法で大画面にしたものだという。世界はおろか宇宙にまで広がる迫力満点のパネルで、新しい年の『ニュースレーダー』が始まった。
年が改まると民放各社からの見学がしきりとなった。新聞や雑誌社も多かったが、こちらは視点が違う。
出演者を送りだし、一息ついた後でお会いする。同じ質疑応答を何度繰り返しただろうか。しかし、質問を受けるたびに得ることがあったのは確かだ。
キャスターの吉備さんに「なにが印象にー」と尋ねた。即座に「鯵ヶ沢町の一人町長事件のときの放送」だったと一言う。鯵ヶ沢は日本海岸の小さな町である。ここで。町の選管が現職侯補の当選を取消し、次点の候補を当選と決めて当選証書を交付したため二人町長が出現するという珍事が起こり全国の注目を集めた。
二人の町長が登庁する当月は現場からの生中継をまじえて構成した。
この部分だけNTVに入中。キイ局とローカル局と、番組は違うが素
材だけ同一のものが流れた。NTVのコメンテーター大島渚さんは「田舎だからこんなことがあるんだ。それが面白い。あってもいい」。人間臭いという感じの発言だった。
一方の吉備さんは現地をつぶさに取材、混沌とした政争の中で町の人びとが必死に解決の糸口を探っていることを実感している。大島さんの「田舎のドタバタ喜劇サ」とでもいいたげな、中央感覚でローカルを、見る口調とは認識の大きな開きがあった。双方、モニターを通してのやりとりで、かけあいの呼吸もいまひとつ。硬骨漢の吉備さんにとっても〃レーダー"にとっても苦い思い出となった。
PR大作戦、
ついにNHKを抜く
45年10月の視聴状況調査では、水曜=35・3%、木曜=33・2%で、
わずかだがNHKを抜いた。この時全杜あげて展開したPR大作戦は、
今も杜内では語り草になっている。 ポスター、名刺に貼るシール、出入りの車すべてにステッカー、団扇や大型のブックマッチ、名刺サイズのカレンダー、新聞やローカルタウ
ン誌への広告、バスの中吊り広告等3名の広報部員は席の温まる暇がなかった。
三年後の一九七三年、報道制作局は報道局と制作局に組織替えとなり軌道にのった『RABニュースレーダー』は報道の手で快走を続ける。
番組がスタートした一九七〇年・昭和45年は30年も昔のことだ。今のレーダーの若いスタッフが生まれた頃始まった番組である。放送時間も朝から夕方に変わった。新しい世紀を迎えようとしているこれからも、地域に密着した、時に型破りのニュース番組を育てて欲しい。