開局の頃のニュース

―テレビ草創期の現場撮影―

久保田美雄(BSS)
 17才の少年が高速バスを乗っ取り人質をとって、牛刀をふりかざして乗客をおどしている状況が、テレビの高感度カメラで録画され、また早朝のSAT(警察特殊部隊)の突入の瞬間が生中継されるというテレビニュースを見ていて、ニュースの現場はついにここまで来たのかと、テレビ草創期の頃から現場に携わってきた者にとっては、感慨深いものがある。
 山陰地方でテレビの放送が始まったのは昭和33〜34年、映像制作の現場は当時隆盛を誇っていた映画から導入された部分が多いというよりも、そっくり映画の世界がそのまま入ってきていた。ニュースをはじめ番組の映像取材は『70=DR』というゼンマイ巻きの16oフイルムカメラが使われた。ゼンマイを一杯巻いてシャッターを押すと、凡そ30秒の撮影が出来、1項目1分のニュースの取材には100フィート(30、5m凡そ三分弱の撮影が出来る)巻のフィルム1本をめどに撮影していた。撮影現場ではピントも絞りも手動で、勘に頼るという職人芸的な技術が要った。

 
「山陰地方に災害相次ぐ」
 テレビの放送が始まってから山陰地方とくに島根県下で豪雪、水害、干ばつと災害が相次ぎテレビニュースは災害報道が多かった。豪雪とか水害では孤立する被災地への取材はヘリコプターが威力を発揮した。当時のヘリコプターは農薬散布用のKH=4型という機体が使われていたため振動が激しく、画面のブレを防ぐため座席から腰を浮かせて身体をクッションにしてシャッターを押すという相当にきつい撮影だった。国鉄が国民の重要な足だった事から路床が流されて宙吊りになった鉄道線路の復旧作業は映像ニュースには欠かせなかった。宍道湖の水が溢れて、松江市や平田市が冠水した昭和四七年豪雨災害では空撮の映像でその被害の大きさを改めて実感するのだった。
 撮影したフィルムは局に持ち帰って、自動現像機にかけてネガ現像をし、さらにこれをもとにポジフィルムにプリンターで焼きつけそれをまた自動現像機にかけてやっとラッシュフイルムの出来上がり。それを編集して放送用に仕上げる。このように多くのプロセスを経なければならないので、午後6時50分のローカルニュースの時間に間に合せるためには午後3時には帰社していなければならなかった。
昭和47年豪雨災害(へり空撮)
宍道湖の水があふれ冠水した平田市
昭和39年 加茂町の水害

 
「生放送に四苦八苦」
 映像を送り出す部屋「マスター」の正面にある大時計には秒針の0秒と30秒の3秒前のところに、赤い目印がついていた。これはフイルムスタートの合図を出す目安だった。フイルムの項目が終わる3秒前から画面の右上の隅に丸いパンチ穴が出て、担当のディレクターが『3秒前。2秒前。1秒前ハイ!テロップどうぞ!」と大声でスタッフに合図をしながら5分間のニュース送出に神経を集中していた。テレビ開局後暫くはCMもディレクターのキューで男女アナウンサーが交互に原稿を読んで生放送していた。放送中にフイルムが切れて白味が出たり、BGMのレコードの回転が違っていたり、ミスをしながら放送に携わる人の技術も放送機器も日進月歩、昭和47年の大山国体を機にフイルムがカラー化し、撮影機もズームレンズのついたモータードライブの「キャノンスクーピック」に代わった。そして降りしきる雪の中の開会式のカラーニュースに感動の涙を流した。

 
「VTR化進む}
 フォード大統領の訪日に同行したアメリカの取材陣が日本の家庭用VTRを放送に使ったのがきっかけで、ニュースのVTR化が進み、いまのENG(エレクトリック、ニュース、ギャザリング)全盛の時代を迎える。そして「デジタル化」「衛星放送」と放送技術の進歩はとどまるところをしらない。
 外に出て客観的にテレビを観る立場になって放送界の現状を見ると、ハード面での白動化が隅々まで行きわたり、番組やニュースの中味までがマニアル化してしまったように感じるのは私だけなのだろうか。テレビ草創期の頃に見られた『テレビはオレ達が創っていくのだ1』という熱いおもいが感じられないのは、テレビが安泰期に入ったからなのだろうか。それとも映画産業が辿ったように衰退期に入っているからなのだろうか。
昭和38年豪雪(松江大橋)
降り続く雪と低温で宍道湖が凍る

2000年5月30日記
写真家 久保田美雄(米子市)
 
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