三十年戦争の終幕を見る

藤原 亙(TBS)

 1946年に始まったベトナムの対仏独立戦争は、54年5月のデイエンビエンフー陥落で事実上ベトナム側の勝利に終わった。前月から開かれていたジュネーブ会議は同年7月に停戦を宣言。そこでは南北統一のための総選挙を2年後に実施することを明記し、それまでは北緯17度線が南北の暫定的な軍事境界線とされた。しかし、冷戦構造の中でコミットを深めていた米国と南ベトナムはこの宣言に調印せず、主役は米国に代わり停戦は実現しなかった。その後、ベトナム全土での停戦を取り決めた73年のパリ協定発効後も戦争は続き、75年、南ベトナムの崩壊で前後30年に及ぶこの戦争はついに終わりを告げた。以下は、当時サィゴン特派員だった藤原さんの、南ベトナム崩壊前後一ヶ月余の記録である。 (編集部)
 三十年戦争の終幕を見る
 藤原亙(TBS)
 空が薄明から深い青へ変わるころ、街頭のスピーカーが革命歌を流し出す。ニュースや布告も入るが、概ね、男女青年のコーラスによる行進のリズムが、雨期が近づいて僅かに湿り気を帯びた空気を震わせる。
 新しい一日の始まり。
 サイゴンと、時計の針が先行するハノイとの二つの標準時が残っており、早起きで勤勉な「北」の質実を誇示することで、「南」の精神風土を矯め治そうとしているかのように感じられた。雑音混じりの行進曲は、変化への不安をかき立てながら、屋根や街路樹の上を流れ、まだ活動を始めていない街は息を詰めて何かを待っていた。私にとって、1975年を象徴する情景である。 陥落直前の南ベトナムに入ったのは4月中旬だった。当時、TBSは東南アジア取材の拠点をシンガポールに移していたが、サイゴン支局の機能は現地スタッフも含めて維持されており、原沢支局長と小田カメラマンが戦争の最終局面をカバーしていた。
 南政府軍が総崩れとなった3月からは黒田デスクが応援に来ていたのだが、状況を統括するために本社に戻り、私はその交替要員だった。 71年暮れから73年春のパリ協定停戦の発効までをサイゴン特派員として過ごしていたので、ほぼ2年ぶりのベトナムだった。
   トンネルの向こうが見えた
戦闘らしい戦闘もないまま北の機甲部隊の南下が続いて、南政府軍の戦況発表は形骸化していた。一方、首都のタンソンニュット空軍基地内にはパリ協定以来、臨時革命政府と北ベトナム軍の代表が常駐して記者団と会っていたが、こちらも穏やかな雑談が続くだけだった。ただ待っていたのだ。
 当時、北ベトナムは「南のグエン・バン・チュー大統領が辞めれば停戦交渉に応ずる」と繰り返していた。首都の市街戦は避けられないのか、最後の防衛ラインが突破される前に、大統領は辞任するのか…。
 大統領官邸に情報源を持つ支局スタッフがもたらす動静や、交渉による事態収集を模索する"和平派"国会議員などの取材結果をテレックス送稿する傍ら、空軍基地内の防空壕に住む革命政府代表団の表情や、首都周辺にまで流れ込んできた避難民などのフィルム・ストーリーを、航空便に託す日々が続いて一週間目、大統領がテレビで演説するとの情報が流れた。
 真っ先に国営ラジオ局に駆けつけて、番組用の音声回線とスタジオを予約した。日本との電話は、以前の1年3ヶ月余の滞在中に繋がったのが一度だけ、それも大声で怒鳴りあってさえ会話不能だった。日常的な送稿はテレックス。専用線を持つ外国の大手通信社を除くと、全報道関係者がテレックス・センターの2台に依存していた。原稿をオペレーターに託す際の心付けで順番が入れ替わってしまう程で、キーボードを通じて本社との直接交信など望むべくもない。最新の動きに対応するには、番組用の1本の回線が唯一確実な手段だった。
 チュー大統領の演説は自分の採ってきた政策への理解を求める訴えが延々と続く。辞任のニュァンスを確信して「トンネルの向こうがやっと見えた」とボイスレポートを終えたのは、予約した回線が切れる直前だった。夜間外出禁止で人影の途絶えた街を支局まで歩く半時間余り、演説が途切れなかった。街角ごとの歩哨の兵士がラジオの音量を上げているのだ。夜の街に白分の足音だけが響く外出禁止時間では、もはやなくなっていた。
 迫る終幕、 揺れるスタッフ
 チュー氏に代わって副大統領が臨時大統領となったが、交渉推進派の代表と衆目が一致していたズオン・バン・ミン将軍に代わるまで、実にまる1週問が空費されている。その問、前述の回線を使ったレポートを続けながら、小田カメラマンと私は毎日早起きして、北の機甲部隊が南下しているサイゴン東方の国道1号線の取材に時間を傾けた。
 4月24日、かつて巨大な米軍基地が置かれていたビエンホアで、敗走してくる海兵隊に遭遇。空挺部隊と並んで最も規律が高い虎の子部隊だった。26日早朝、サイゴン市境界の橋のたもとで100台余りの小型トラクターの集団を目撃。ビエンホア北東の省から避難してきた農民たちだった。難民は各街道ごとに市域の外に留め、市内の混乱を防ぐのが長い戦争の期間中堅持された方針だつたが、正午頃にはトラクターの列が橋を渡った。サイゴンの陥落が時間の問題であることを確信したのは、この時である。同じ日、シンガポール航空を最後に、外国航空会社のフライトが全て止まった。
 郊外の取材から帰って、ボイスレポートに出かけるまでの夕方の時間支局スタッフとの終わりのない会話が続いた。何としてでも国を出るというションさん。ミン、グエット、アン、シャックの各氏らは残る意志あるいは出国諦め。ヴァンさんは迷っていた。北から移ってきたウィンさんは亡命を拒否しながらも怖がっていた。到着早々から、出国も考慮しているスタッフの求めに応じて身分証明書や、避難への便宜を要請する文書を作っていたが、今また、依頼状や推薦状や考えられる限りの文章をタイプし続けた。気休めでしかないことを誰もが知っていた。スタッフヘの私達の言葉は無力だった。睡眠不足による疲れと寝冷えから下痢が止まらなかった。
 本社との直接連絡のためシンガポールにとんぼ返りしていた原沢支局長は、「月内に出国せよ」との本社指示を持ち帰っていた。日本の報道各社が利用を想定していた日航特別機は、予定を繰り上げたものの遅きに失してマニラで足止め、27日にはサイゴンは孤立した。
 歴史の転換点を前にして、私は自分の帰国準備をする気になれないでいた。それに、取材や送稿及びスタッフとの会話で睡眠時間を極端に切りつめる毎日が続き、その他の余裕がなかったのが実情でもあった。内心では「結果として居残ることになれば本望」と思っていた訳だが、本社の判断は理解できるし、自分の思いに他の人を巻き込むことは論外だと考えていた。72年春の〃イースター大攻勢"の勃発直後、サイゴンからの外出禁止という本社の厳命に逆らった際、一緒にいた広瀬カメラマンに迷惑が及びかねず、後に大いに反省した経験もあった。現地でもっと議論して明確な方針を持つべきだったという批判はあるだろう。確かなことは、残る場合への備えをしていなかった答で、陥落後の取材を不十分なものにした他、自分の立場の暖昧さを記憶のシミとして引きずっている。

   包囲されたサイゴン

 27日仏暁、122o砲弾6発が撃ち込まれた。サイゴン河畔のマジェスティック・ホテル最上階のレストランが直撃されたほか、中央市場近くや中国人街の商店が被災した。ゲリラ部隊の使うロケット砲や携帯可能な迫撃砲と違って、射程11キロの122o砲弾は、正規部隊によって包囲されたことを意味する。
 取材フィルムの送り出しを試みた小田さんは、かろうじて運行している国営ベトナム航空のシンガポール便に託そうにも、殺到した人並みで空港に近づくことすらできなかった。ラジオ局スタジオを使ってのボイスレポートも、人通りの途絶えた夜の街を歩いて帰る経験もこの日が最後となって、以後はテレックスに頼ることとなる。原稿用紙の間に潜ませるオペレータヘの"心付け"の額は鰻登りになっていた。
  被弾したマジェスティックは最も格式の高いホテルで、道路沿いは色鮮やかな花壇になっていたのだが、取り除ききれなかったガラスの細片が真昼の陽射しにきらめく中で、花の手入れをする従業員の姿があった。南国特有のゆったりとした物腰で。長い戦争に慣れてしまったと言えばそれまでなのか。政体の変化も庶民には無縁、まして、戦争を持ち込んだ外国人が敗退してゆくだけのこと、との達観なのか。取材という立場ではあれ戦争ゆえにやってきた私は、白分の在りようの暖昧さを質されたようで、額縁に収まったようなその光景が息を呑むほど美しくもあり、心を落ち着かなくもさせた。

 停戦のための切り札とされてきたミン将軍の大統領就任は翌28日の夕刻。もはや全てが終わっていた。就任演説の途中から激しい雨となり、稲妻と雷鳴が空を覆った。1時間後、首都空港でもあるタンソンニュット基地が、北側の手に渡った戦閾爆撃機に攻撃された。
 支局スタッフの多くは、通信社や放送局や軍などに勤務するいわばアルバイトだったが、"本業"が機能しなくなってからは、自分たちの情報交換の場として支局にいる時間が増えていた。彼らに、原沢支局長、小田カメラマンと私は、米軍による外国報道陣退去の手段を試みることを伝えた。昼のマジェスティック・ホテルの光景が頭の中を廻った。

    遂に、、、

 翌朝、米軍ラジオから時ならぬホワイト・クリスマスのメロディーが流れた。最終脱出作戦の発動の合図である。バスに乗るよう指定された場所にゆくと、集まってくる日本人記者団の姿から状況を察したベトナムの人々が、その何倍もの人数で群がって来る。出発前に東京で見たダナン空港でのパニックが脳裏に浮かぶ。「この人たちと座席を争うことは出来ない」という心の中の叫びは、しかし直ぐに消えた。予定されたプランは機能しないだろうから。
 陥落後を見届けたいという強い思いを持ちながら、本社の出国指示を覆すことができないまま目前の取材に身を委ねることで、私は問題を避けていたのだった。居残ると決めて、それまで胃の辺りに滞っていた不安感が消え、空の青が明るさを取り戻した。
 午後になって小田カメラマンと合流し取材が再開されたのだが、最後の脱出拠点となったアメリカ大使館は敢えて対象にしなかった。どうせ送信手段がないのだからと、カメラが集中する場所は映像通信社に任せて、私達は避難に殺到しない人々に焦点を合わせることにした。
 米大使館ともう一つの脱出口であるサイゴン河埠頭を除くと街は普段の人並みが消えて、サイレント映画を見ているようだった。軍服を脱ぎ裸になった政府軍兵士。脱ぎ捨てられた制服に混じるカービン銃、それを手にする少年。半開きにしたシャッターやドアのすき間から外をうかがう人。掲げられる南ベトナム国旗が減ってフランス国旗が増えていった。知人の家に入ると臨時革命政府の旗を取り出して次に備えていた。どのように隠し持っていたのか…。
私は「これがサイゴンなんだ」と同じ呟きを繰り返していた、と小田さんが後で教えてくれた。
 大規模な市街戦が起こる可能性は少ないと考えていた。怖れたのは、規律を失った政府軍兵士や民兵の自暴白棄、家屋に侵入しての略奪や路上でのかつぱらい。外国人に対する反発がそれまで抑えられていたのだとすれば、どのような状況でそれが噴出するかだった。支局は目抜き通りに面していたし、この時期のホテルは事実上、外国人専用になっていたので、状況を見通せるまでの三夜
を日本大使館のソファや床で仮眠させて貰った。

   無血入城

 30日、未明からの取材手帳の走り書き。・・・・最後のヘリコプターが去った米大使館前の路上に引き出されたソファーで、丸裸の赤ん坊を抱えて眠る若い母親。サイゴン河埠頭に集まり続ける、土壇場の脱出を求める人々。炎上して漂流する海軍舟艇。そこへ突然、解放戦線旗を振ってバイクが走り抜ける。どこからともなく解放戦線旗を掲げたジーブが船着き場に走り込み、飛び降りたシャツ姿の青年が群衆に話し始める。ことが終わったことを説得しているのだろう。群衆が散り始める。……後に明らかにされたところによると、私服で市内に潜入していた「特別攻撃部隊」の行動であり、彼らの任務には、電力や水道など基幹となる拠点や、サイゴンを取り巻く河の橋を確保することも含まれていた…次の瞬間には、M16ライフルを乱射しながら走り抜ける旧政府軍のジープ。身をかがめて建物の陰に避難すると、次の大通りでは北の兵士を載せたトラックを市民が取り囲むようにして対話が始まっている。空港および国道1号方面に絶えない黒煙。あちこちで響く爆発音。市役所前で市街戦の戦闘隊形に入る北軍歩兵部隊。自動小銃の乾いた連射音。そうした光景をフィルムに収めながら正午過ぎに大統領官邸に着くと、一群の戦車が既に休息体制に入っていた。
 私達は残念ながら、無血入城する機甲部隊が大統領官邸の鉄門を突き破る象徴的な瞬間を目撃することはできなかったが、代わりに、舞台が転換するサイゴンの典型的な状況は取材できたのだと思う。
 進駐部隊が要所で野営し、照明弾の曳光に取り囲まれ、あらゆる物音が消えた夜になって、新しい頁が繰られたことを実感した。深夜、大通りの露店が一軒、兵土に飲物を供していた。

   通信途絶

 前日までの洪水のようなニュース発信が途絶えたサイゴンから、陥落の状況を伝える「日本人記者団発」の原稿が東京に届き、世界中に転電された。キッカケは私達を含め大使館に避難した日刊2紙、通信1社、TV2社の6人が大使館のテレックスを借りて外務省経由で本社に送った"必要最小限の"短信だったのだが、聞き知った他社も加わって、送稿量を押さえるためプール制にしたものだった。後に「共同取材に頼る悪癖」と誤解に基づく批判を受けたことがあるので記しておきたい。
 大使館のテレックス使用を断られて、この方式も2日間しか続かず、後に英仏語に限っての電報が認められるまで、サイゴンは世界の目から姿を消した。

  支局スタッフの死

 街では、主だった建物の接収が始まり、犯罪人の公開処刑が何件か続いて、処刑された死体が日暮れまで公衆の目に晒された。市民は、ジュネーブ協定で南北が分断された54年以来の履歴の申告を求められた。扉を閉ざした商店は敵対的と見なす、などの布告によって日常活動の維持が図られていたが、高級品店は従来の商品を並べる訳にもいかず、小さな椅子を並べただけの俄か喫茶店が急増した。一方で、旺盛なエネルギーに満ちていたのは闇市で、北の兵士が群がっていた。
 支局スタッフは毎日、変化に直面した庶民レベルの実態を裏話を交えてもたらしたが、そうした中、支局のウィンさんがピストルで撃たれて亡くなった。54年に北の体制を嫌って避難してきたため、最も神経質になっていた。ところが、一人だけ解放戦線に身を投じた兄がサイゴン進駐部隊の幹部だったことが判って、急に表情が明るくなっていたのだが、治安維持に協力することになったのが裏目に出て、トラブルに巻き込まれたようだった。その葬儀で支局一同が顔を揃えた中で、政権中枢に強い情報源を持っていたアンさんの憔悴が激しかった。

  「仮の衣」を脱ぎ捨てる?

 サイゴン地区を統括する軍事管理委員会のお披露目は、デインビエンフー陥落記念日の5月7日に設定された。その意味は当然、市民に理解された。一週間余り後に行われた「解放祝賀式典」では、壇上中央に北ベトナムのトン・ドク・タン大統領、労働党南部地区担当のファン・フン書記、総参謀長のバンティエン・ズン将軍ら北の政府、党、軍の最高幹部が居並ぶ。それまで北ベトナムが、「南の民族同胞とアメリカ及びその傀儡政権との戦争である」との立場を崩さず、当事者として前面に押し出していた、解放民族戦線のグエン・フ・ト議長や南ベトナム臨時革命政府を代表してパリ休戦会議で活躍したグエン・チ・ビン女史らの姿は、横に長く延びた壇の左右の端の方でやっと見つけられた。 驚きを隠せない私に、ハノイを取材拠点にしていた日本電波ニュースの鈴木さんが、北から見たベトナム戦争史観を改めて語ってくれた。
 祝賀の日、「独立と自由より貴いものはない」という故ホー・チ・ミン首席の言葉、長いベトナム戦争のシンボルとなったスローガンが文字通り街中を埋め尽くした。夜に入って川岸に出ると、祝賀の花火と警戒のための照明弾の曳光が交錯していた。私は2年前のパリ協定停戦施行の日、同じ場所に立って、闇を払う照明弾だけの光の帯を見ていたことを思い出さずにはいられなかった。ハノイでは盛大な花火で祝っていたというのに。

 報道陣用の航空便への登録受付が始まったのはその翌朝である。かねて電報による原稿の中に、その後の行動についての質問を忍び込ませていたのだが、本社から届いていた返電は、「小田カメラマンは残って取材を続け、藤原は最初の機会に帰国して特別番組を」というものだった。私達は、ベトナムが自ら発信しようとする宣布行事以外には、外国のテレビ取材を受け入れる態勢には無いと判断されるので、小田さんだけ残っても現実的な意味は少ないと思われることを伝えた。このフライトに登録すると、外務省に出頭して「出発は明日にも」という係官の説明を聞く朝が、九日間も繰り返されることになる。

   耐乏生活

 状況に合わせて〃残留願望"を果たした私は、計画的に準備しなかった結果を刈り取るはめになった。物価高騰による生活苦である。実はかなりのドル紙幣を身につけていたのだが、緊急事態に備えて、あるいは如何なる形であれフィルム送りの機会を逃さないために、無為に費うわけにはいかない。とは言え、当面の宿所は安全確保と情報に接するためにも外国報道陣の多い高級なキャラベルホテルが望ましい。一部屋を小田さんとシェアしたが、小田さんは汗っかき、私は寝冷えが怖く、互いに相手が寝静まってから温度の調節を繰り返したものだった。後には幾晩かを支局のソファーで過ごした。
 朝食を抜くのは簡単だ。昼食を一番安く食べるには路上で、香菜をのせたどんぶり飯にニョクマム(魚醤)をかける。土地の人は道にしゃがむのだが、どうにもそれは出来かねて立ったままかき込んだ。意気阻喪しないようにと夕食は食堂に入ったのだが、弱ったのは嗜好品である。煙草一箱と小ビンのビールが同じ値段で、それは昼食代の二倍にもなる。チェーンスモーカーの小田さんと呑兵衛の私が到達した解決策は、煙草の日とビールの日を交互にすること。一日おきに小ビンを分け合い、吸いつなぐという誠に健康的な生活を送ることができた。そんなある日、旧知の中国系ベトナム人がチョロン中華街のレストランに招待してくれた。しかも、私の物欲しげな視線が隣の卓に向いたのを気付かれたのだろう、出回り始めた高価なドリアンをデザートに取ってくれ、記憶する最高の食事となった。

   最後の難関を無事に

 5月24日、各国報道陣をのせた特別機がラオスのビェンチャンヘ向け離陸したとき、主に西欧の記者たちから拍手が起こった。それに和する気持ちにはなれなかったが、深い安堵感を持ったのは確かだ。ことに、出国にあたっての最大の不安だった荷物検査で、「非公式ルートに託して東京に送る」という誘惑を退けてため込んでいたフィルムを持ち出せたのだから。未現像スティルフィルムを没収された仲間もいたが、私達は新聞以外の印刷物の携行を拒否された。

 ビエンチャンの日本人大使館でビザ手続きを済ませ、メコン河を船でタイ側に渡り、バスがバンコクに着いたのは日付が変わってからだった。電話レポートや打ち合わせでホテルのベッ下は遂に使う暇もなく、朝一番の便で羽田に帰ったのは25日も夜に入ってからである。

 特別番組は「サイゴン・陥落と変革の30日」(75年5月27日放送)と題したが、視点の中立性を保つための苦肉の選択で、正確ではない。番組内でも述べたとおり、体験したのは変革への地ならし段階に過ぎない。私は、ベトナムの人々の生き方や感受性にできるだけ自分を近づけながら、追り来る変化をくみ取ろうとしていたのだった。ラウドスピーカーの行進曲に圧倒されながら。

 写真はTBS提供。サイゴン陥落後に小田カメラマンが撮影したフィルムから。