国会に初めて立てた

 
民放マイクの思い出
  
遺稿 益丼 康一(毎日新聞・RF)
 昭和26年9月1日、新日本放送(現毎日放送)と中部日本放送が開局、日本最初の民間放送でした。今回の民放史は、当時、毎日新聞東京本社ラジオ報道部副部長で後のラジオ関東(現ラジオ日本)専務・故益井康一さんが『日本ジャーナリスト懇話会』会報に書かれたものをご遺族の了解を頂いて転載したものです。

 私はテレビの国会中継で演壇に立つマイクを見るたびに、昔、苦労したことを思い出す。衆議院でも参議院でも演壇のマイクは三本ある。種類別にすると議場用とNHK用、それにもう一つは民放用である。この民放マイクを初めて国会に立てたのはほかならぬ私である。 わが国で初めてラジオ放送を開始した民放第一号は、大阪の新日本放送(現・毎日放送)と、名古屋の中部日本放送の両社で、ともに昭和二十六年九月一日開局した。もちろんテレビはNHK、民放ともまだ生まれていなかった(NHK東京のテレビは昭和二十八年二月一日、日本テレビは同年八月二十八日放送開始)。当時私は毎日新聞東京本社編集局のラジオ報道部副部長(のち部長)で毎日系の新日本放送に毎日新聞ニュースの原稿を流す仕事をしていた。私の部に十数人の部員がいて政治、経済、外信、社会その他取材各部からラジオ用に原稿を一枚余分にコピーさせて集め、話言葉に書き直すのだが、これが大変な作業だった。何しろ民放なるものが全く理解されていない時代のことだ。各部とも特ダネ意識がともなって原稿の出し惜しみをする。そこで私が出かけていって相手のデスクと出せ、出さぬのやりとりとなる。喧嘩さながらで守衛がびっくりして止めにきたこともたびたびあつた。こんな内輪もめはまだよい。外部では大変も大変だった。
 例えば東京都内や大阪市内を新日本放送の取材車がNJBと染めぬいた杜旗をひるがえして走ると、「おい、その旗は何だ?」と警官が怪しんで車を止め交番につれていく。その後から「なんだ、なんだ……」とわめきながら野次馬がついていく。名古屋でも中部日本放送のCBCの社旗が同じような目に遭って悲鳴をあげた。
 こんな電波の草分け時代に、私は行きがかり上、国会に民放マイクを立てる大役を背負いこむハメになったいきさつを説明しよう。
 新日本放送も中部日本放送も本放送より約五ヶ月早く予備免許を受けて試験放送をしていた。そのとき両局がどうしても欲しかったのは、国会ニュースの"音"(実況または録音もの)だった。NHKは議場内にマイクを入れていたが、民放は立てられなかった。それどころか民放両局は国会の門内へ一歩も入れてくれなかった。これでは商売にならない。新聞社の力で何とかしてほしいと両局から泣きつかれた私は、部内で相談してとりあえず国会の裏門前の国会記者クラブに白前の録音機を持ち込んだ。当時、首相官邸の正門前に国会記者クラブの二階建の建物があった。今は議員会館の駐車場になっている。その一階の毎日記者室の一隅に録音機を据えつけた。この録音機は毎日新聞社が「ラジオ日本」という放送局を設立するため買ってあったドイツ製のマグネコーダーという三つ折れになる大きなずう体の録音機であった。
 さてこれから我々は新聞杜に割り当てられた記者用の国会バッジをつけて国会内に出入りした。そして政治部出先の協力を得て吉田内閣の各大臣や議貝を国会内から一人ずつ記者クラブにつれ出し、マグネコの前でインタビューした。その録音テープを有楽町の毎日新聞に持って帰り、嫌がる連絡部を説き伏せて新聞社の専用電話線で大阪本社に流した。これを新日本放送が受けて使い、中部日本放送もその録音を流してもらって使った。私達がやったことはほとんど放送局の仕事だが、何分開業早々の民放など無力なこと見るも哀れで、政治家相手の仕事などとてもできない。そこでやむなく私達が新聞社の力でやらざるを得なかった。
 そのうちに東京通信工業という町工場のようなメーカーが生まれて、小型の携帯用録音機を制作した。それを試験的にぜひ買ってほしいとわがラジオ報道部へ泣きついてきた。東通工は昭和二十五年わが国最初のテープ・レコーダー第一号機(商品名テープコーダー)の制作に成功した。その後続々改良型を作り、民放発達の波に乗り、社名を「ソニー」と改称して今日の世界的大企業に発展した。しかし私達の新聞杜で買った東通工初期の録音機は、回転中のリールが時々止まつたり、故障が多くそのたび東通工へ電話して修理に来てもらうなど相当手こずった。しかし携帯録音機はこれしかない時代だから、私達は「ミニ・コーダー」と呼んで愛用した。またの名はデンスケである。わがラジオ報道部には新聞記者魂を発揮した勇士がたくさんいた。例えば吉村眞治君(NBN)はこのデンスケを肩に掛け、群集が地上で肝を冷やしながら見守る中を傾斜四十五度の東京駅正面の大屋根にはい上がり、修理係員とインタビューした。

 吉村眞治氏談
《昭和26年当時、私は毎日新聞ラジオ報道部で益井さんの下で働いていた。27年3月の十勝、三陸沖地震の津波被害や同年4月の日航もく星号墜落事故などをデンスケを肩に取材に行ったものだった。だが文中で私が「東京駅正面の大屋根に這い上がり」取材したことになっているが、これは同じ部にいた小巻元隆君(後にMBS,95年没)のことで益井氏の単なる思い違いだと思う。
 やがて28年8月日本テレビが開局し、ラジオ報道部もラジオ・テレビ部となったが、民放各社の報道が力をつけるに従い、新聞社に依存していた取材活動は民放側へと移っていった。
 その後益井氏は毎日新聞中部本社の編集局長になられ、さらにラジオ関東(現ラジオ日本)の専務をされ、私も43年6月名古屋テレビ放送に移ったが、今この文に接し民放創成期の頃を思いだし大変懐かしい》

 また設楽敏雄君(後にMBS)らも、昭和二十六年八月二十七日、サンフランシスコの講和会議に出席する直前のわが全権団と首相官邸で強引にインタビューするのに成功した。デンスケでとったこの録音も新聞社の専用線で大阪に送ってやり、その夜の新日本放送の試験電波で放送した。
 さて私はその一方で衆参両院の議場に民放マイクを立てるために国会側と交渉を続けた。参議院は衆議院で決まればすべて同調するというので、まず衆院の大池真事務総長を攻めた。大池氏は昭和二十年衆院書記官長となり、事務総長と改称後も二十二年五月から三十年十一月まで初代総長をつとめた国会の生字引だ。大池氏は最初「国会中継はNHKだけでよい」と逃げていたが、何回も足を運んで食い下がった結果、やっと「では議運の承認をもらって下さい」ということになった。議運とは衆議院運営委員会のことだ。これは議長の諮問機関として、国会全体の運営上大きな発言権をもつ。本会議の議事運営をきめたり、議貝会館や自動車の割り当てをきめるのも議運だ。当時の議運委員長は小沢佐重喜氏(岩手二区)であった。彼は電波問題が動き始めた昭和二十四年代に電気通信大臣としてNHK再編や民放誕生を手がけた。
 私は初対面だったが、昭和二十六年四月第十通常国会のさなかに衆院の議運委員長室で小沢氏と交渉を始めた。そしてこの年の九月にサンフランシスコで対日講和条約の調印が迫っていることを理由に、一日も早く国会に民放のマイクを立てさせてくれるようにと攻め立てた。しかし小沢氏も最初はなかなかウンといわなかった。が、結局お百度を踏むうちにやっと理解してくれ議運にかけてくれた。しかし議運でも反対論が強かった。特に進歩的であるべきはずの社会党が講和会議全権を拒否した故か、民放マイクに反対したのには唖然とした。
 これも結局小沢委員長の努力で何とかまとめてくれた。そして民放にも一社二個ずつ院内立入り用のバッジを交付すると、それから録音機を本会議場に持ちこむことを認めてくれた。
 そこで私は第十一臨時国会(二十六年八月十六日から)に備えて、その前に新日本放送東京支社技術課長の湯浅清君らを連れて衆議院本会議場二階の傍聴席左端の新聞記者席に出かけた。幸い階下の議場の演壇に最も近い記者席の突端が毎日新聞の席であった。しめたと喜びながら突端に例のマグネコを据えつけた。そして湯浅君らに議長席のすぐ下の演
壇上に議場用マイクとNHKマイクと並んで堂々初めて(新日本放送)の民放マイクを一本立てさせた。そのマイクから配線して大臣席の前を経て二階記者席のマグネコまで延々とラインをつないだ。
 やがて本会議が始まったときこの幼稚な仕掛けで各大臣や議員諸公の演説から問答までテープに録音し、新日本放送から中部日本放送にも流してやった、笑うなかれ、民放国会中継の歴史はここに始まるのである。もちろん参議院は衆議院の決定どおりすべてやってくれた。
 
湯浅清氏談
 《益井さんは、私が新日本放送に入社早々お世話になった方で、この手記を嬉しく拝見した。お話の筋は私の記憶とほぼ一致しているが、細かい点でやや思い違いをされている個所があるので訂正させて頂きたい。
 文中「第十一臨時国会に備えて」とあるが、これは後述の第十二臨時国会(26年10月10日から)に備えての誤りだと思う。というのは私は同年9月1日の入社で、第十一臨時国会の期問中(8月16日〜8月18日)未だ在籍していなかった。
 従って益井さんと初めてお会いした時は入社したばかりのヒラ社員、技術課長である訳はないのだが、これは益井さんの好意的な誤解だと思う。
 又「議長席のすぐ下の演壇に議場用マイクとNHKマイクと並んで民放マイクを一本立てさせた」とあるが、これも正確には「議長席用のマイクと演壇用のマイクとの二本を立てさせた」と言うべきである。
 尚この時のことだが、立派な彫刻が施されてある議長席用と演壇用のテーブルにケーブルを通すとはいえ穴をあけるのは大いに躊躇したが、国会の庶務係の人から「どうぞ構わずにやって下さい」と言われて勇気を出して施工したのを憶えている。
 こうして二階記者席の録音機までラインを引き、そこで録音されたものが放送にのった訳だが、文中「新日本放送から中部日本放送に流してやった」というのは誤りで、この時既にCBCは東京支社の大木貞一氏が益井さんと話をつけNJBの録音機の横に同社の録音機を持ち込み、両杜パラレルで収録したのが事実である。
 その後ラジオ東京をはじめ民放局の開局に伴い、数局が一緒になって国会内に記者クラブの部屋を持ち、録音することになった。私はその為の配線図を作成し、衆参本会議場の
ほか予算委員室からもラインを引くことが出来た。私にとっても懐かしい思い出である》
 その後、大阪の朝日放送(二十六年十一月十一日)福岡のラジオ九州(現RKB毎日放送・同年十二月一日)ラジオ東京(現東京放送・同年十二月二十四日)および近畿放送(現京都放送・同日)と民放ラジオの開局が続くので、前記のやっつけ作業では十月十日召集の第十二臨時国会に対応できない。しかもこの国会には対日講和条約と日米安保条約承認という重大議題がかかる。そこで私は再び小沢氏に対し一日も早く国会当局が予算をとって本格的放送施設を整えてくれるように働きかけた。幸い議運は同年十月八日衆議院に放送施設一切の工事を実施することを決定し、参議院も同様の措置をしてくれた。
 第十二臨時国会は同年十月十日開院式、そして吉田首相の施政方針演説があった。十五日から質問に移り、衆院では鈴木正文(自)三木武夫(民)鈴木義男(社)参院では棚橋小虎(社)大屋晋三(自)前之園喜一郎(民)各議員が第一陣となって舌端火を吐く質問戦が展開された。民放ラジオの国会中継はこのときから本格的に始まり、テレビ時代の今日に持ちこんだ。新しく誕生した後続の民放各局はこうした事情も知らず、何ら苦労せずして棚ボタ式に国会中継の恩恵に浴した。
 以上の秘話は毎日新聞の社史にも載っていないし、どの民放局の社史や、日本民間放送連盟の記録にもない。小沢、大池両氏も亡い。今となっては知るものは当事者であった私達以外にない。だがこれはれつきとした日本民間放送史の第一ぺージなのである。

益井康一氏は平成十一年に死去されました。ご冥福をお祈りいたします。

(取材・樋口正輝)

写真及び資料提供、MBS、TBS、湯浅清氏、吉村眞治氏