ローカルテレビ局の挑戦
原爆ドキュメンタリーシリーズ

 小川 博(HTV)        

 広島テレビは昭和37年9月(1962年)、広島では2局目、全国で45番目の民放としてスタートした。施設は貧弱、人員は少ない典型的な後発局だった。地元の広島はまだ原爆の悲劇から立ち直れず、被爆者の多くは原爆症の不安にさらされていた。この実情を国内はもとより国外へも訴えるため文部省主催の芸術祭に舞台を借りた。原爆ドキュメンタリーシリーズの制作である。芸術祭では奨励賞、優秀賞を9回受賞した。これはまた〃ローカル局には番組制作はむずかしい"という民放界へのチャレンジでもあった。ここでは初期の5作品を取り上げる。
  ドキュメンタリー
   『人間、そのたくましきもの』

    昭和41年度芸術祭奨励賞
    昭和41年度日本テレフィルム技術賞
    1968年度プラハ国際テレビ祭最優秀監督賞
 スタートして4年目のローカル局のこと。自社制作はフィルム構成によるドキュメンタリー番組に重点を置く以外にない。年がら年中、広島にいて被爆者の生活を見たり、声を聞けることが唯一の強味だった。
 もともと私は被爆翌年の21年から中国新聞の記者として市政を担当、被爆者ととむにその苦しみを見続けてきた。当時広島の郊外にあった広島戦災児育成所(山下義信所長)を取材のためよく訪ねた。70人の原爆孤児が育てられていたが、その中の5人が父母の冥福を祈るため得度して少年僧になった。あの少年僧はその後どのように生きてきたか。
 取材を始めたが、少年僧は全国に散っており、みな口が重く語ろうとはしない。その中の一人に広島市に住む川井秀夫さん(当時34歳)がいた。お寺も壇家もない僧侶では生活していけない。高校を出ると警察予備隊に入り、自動車の運転技術を身につけてタクシーの運転手になった。ふとした縁で澄子さん(当時33歳)と結婚、彼女も被爆者だったが原爆症による貧血に悩みながら長女純子ちゃん(当時4歳)を生み、ささやかながら幸せな一家を作っていた。
 デイレクターの杉原萌とカメラマンの竹村峰信はいずれも新人、川井一家の生活を素直に描き、はじめての作品『広島に生きる』(30分番組)を作り上げた。
 その後川井さん夫婦に大きな波紋が起きた。澄子さんが2人目の子を妊娠したのだ。原爆症の不安を抱えて彼女は一旦は中絶を決意したが、一人ぽっちの子の寂しさを知る秀夫さんが説得を繰り返し、やっと生む覚悟を決めた。杉原らは彼女から生まれ出る小さな生命を追って撮影を再開した。
 広島の病院で彼女は貧血に苦しみながら女の赤ちゃんを生んだ。
 「かたわではありませんか」とすぐに尋ねる澄子さん。「かたわではありませんよ」、医師が答える。その瞬間に彼女の両眼から涙が溢れ落ちる。すばらしいシーンだった。この番組は『生まれる』(30分)として制作された。
 1年6か月にわたった撮影でフィルムは1万7000フィートにのぼった。この一家を追った二つの番組をもう一度見つめ直してみたい。
 あらためて構成を映画監督の松山善三さんにお願いした。試写を見た松山さんの口添えもあり、高峰秀子さんがテレビでは初のナレーションを引き受けてくれた。
 タイトルも新しく『人間、そのたくましきもの』(45分)と名付けられ、番組も大きく生れ変った。私にとって初の芸術祭参加番組はフジテレビ系列で放送された。
 番組のクライマックス「赤ちゃんよすこやかであれたくましくあれすくすくと育て」という高峰さんのナレーションは、地元では被爆の母と子におくる強い応援歌になった。「番組の赤ちゃんを抱かせて欲しい」と訪ねてくる女性が後を絶たなかった。
 
  セミ・ドキュメンタリー
   『百日紅(さるすべり)の花』

    昭和42年度芸術祭奨励賞
    第8回放送作家協会最優秀番組賞
 2回目の芸術祭参加はドキュメンタリードラマ『百日紅の花』にはやばやと決まった。〃ローカル局ではドラマは作れない〃といわれた民放界への挑戦だった。
 テーマは被爆の翌年春、広島在住の詩人栗原貞子さんが発表した詩の『生ましめんかな』である。詩の一部を引用する。
  マッチ一本ないくらがりでどうしたらいいのだろう人々は自分の痛みを忘れて気 づかった
  「私が産婆です私が生ませましよう」と言ったのはさっきまでうめいていた重傷者だ かくてくらが  りの地獄の底で新しい生命は生まれたかくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ生   ましめんかな 生ましめんかな己が命捨つとも
 この詩は本当にあった出来事といわれて感動を呼んだ。これをドキュメンタリードラマに作れないか。取材をはじめて間もなく広島市に住むその母子、平野美貴子さんと娘の和子さんを探し出した。和子さんは21歳、短大を出て洋裁学校に通っいた。
 こんどは最初からスタッフを決めた。制作小川博、脚本、監修を松山善三、演出杉原萌、撮影竹村峰信、尾川邦治らを中心に準備にかかった。
 広島の母を演ずるのはこの人以外にはないと、地元出身の大女優杉村春子さんに出演交渉をはじめた。だが、ドラマをはじめて制作するというローカル局に不安を抱いてか、なかなか返事が貰えない。そこで『人間そのたくましきもの』を見てもらったところたちまちにして0K。娘役には広島の女性を起用することにし、偶然にも広島女子大の一年生木村光江さんを見つけ出した。詩の朗読は高峰秀子。 

 
松山さんは2回も広島へ取材にきて脚本が出来あがった。
 物語は広島でたくましく生活する一二波八重(杉村)とその娘紅子(木村)を中心に被爆女性の心を描いた、紅子には恋人がいて求婚されるが、被爆女性が流産したことを知ってから悩みがはじまる。結婚しても子供が生めないのではないか。紅子はあの原爆の夜生まれた娘だった。彼女は希望を失って家出するが、母から生きることの尊さを教えられて恋人のもとへ飛び込んで行く。
 ところが娘役の木村はズブの素人、見かねて高峰秀子さんが東京の自宅で特訓を引き受けてくれた。
 他の出演者も文学座から五人、詩の朗読の高峰さん以外は幼稚園児、先生、医者、看護婦、被爆者など約20人がすべて素人というローカル局ならではの配役。テレビ局側のスタッフも約10人。照明、録音は外注。22年目の原爆の日を前に7月中旬、広島でクランク・イン。連日30度を超す猛暑の中で撮影は進んだ。平和公園近くの民家をそっくり惜り上げて庭にはイメージの百日紅の花を咲かせた。市内ではメッキ工場、産院などを借り、原爆の夜の出産シーンは袋町小学校の被爆したまま残されていた地下室を使った。
 8月6日は平和公園、祈念式典、夜の灯籠流しがそのまま舞台。多くの遺族たちに混ってぶっつけ本番で杉村さんらの迫真の演技が続いた。杉村さんは平和公園近くの実家で少女時代を過しただけに地元のファンも多く盛んに激励の言葉をかけられて感激したという。
 『百日紅の花』は広島テレビ開局5周年記念を兼ねて芸術祭に参加、15番組のトップを切って日本テレビ系列17局に放送された。
 後日談がある。木村はその後松竹映画の中村登監督から出演の誘いがあったが断って学生生活に戻った。更に『生ましめんかな』で赤ん坊を取り上げた産婆の三村ウメヨさんは奇蹟的に生き延びていて、平野さん母子と平和公園で再会、手を取り合って喜んだそうだ。
 
  音楽ドキュメンタリー
   『朝顔』

   昭和43年度芸術祭奨励賞
   1969年スペイン・オンダス賞
 8月6日の広島は肉親を被爆で失った遺族や被爆者たちの平和の祈りに包まれる。その姿を映像で見せ、そこから広島の悲しみ、怒りを感じてもらうのが最もよい表現ではないか。音楽は日本人の血の中を流れている邦楽の交響楽を作ってはどうか。前代未聞の邦楽ドキュメンタリーに挑戦することにした。
 邦楽界の当時の長老今藤長十郎、藤舎呂船のご両人を構成の松山善三さんと東京に訪ねてお願いした。
「邦楽界でもはじめての試みです。各流派の人たちと相談してみます」とはじめは慎重だつたがしばらくして回答がきた。各流派を超えて協力し、最高のメンバーを揃えるということで、早速、交響楽(四楽章)の作曲がはじまった。
 昭和43年8月6日午前4時、松山さん、広島テレビの演出杉原萌などスタッフ約30人が撮影に集合した。とりわけカメラマンは岡田宗之助、竹村峰信、三浦克己、河内英助、尾川邦治、太地徹などを総動員し、10台のカメラがそれぞれ撮影現場へ向った。平和公園を中心に慰霊碑、供養塔、ドーム、原爆病院、火葬地跡、埋葬地、瀬戸内海など約100ヶ所。この日撮ったフィルムは約2万フイート。すでに被爆当時の写真も国の内外から集めていた。
 邦楽交響楽の録音は東京の東芝音楽工業の大スタジオで行なったが、これがまた大変。長十郎、呂船の両長老を中心に作曲の4人、演奏は指揮の清元梅吉をはじめ32人、独唱、合唱16人、総勢48人が次々に顔を揃えた。
 第一楽章受難作曲杵屋巳太郎
 瀬戸内海、広島の夜明けからはじまり、現在の平和な風景と23年前に壊滅した姿を交互に見せながら受難の日とその思いをつづる。時刻は5時から8時14分までを描く。
 音楽は主に琴、尺八を用いて島々の美しい夜明けと広島のなごやかな朝を奏でる。他に三味線と合唱。琴の宮崎富美代と米川敏子という二大奏者の共演が実現した。
 第二楽章 地獄 藤舎堆峰
 原爆投下。一瞬のうちに街は崩壊し燃え上った。多くの爆死者は倒れ、全身火傷の重傷者は水を求めて川へ殺到し地獄となった。時刻は8時15分。
 音楽は打楽器、小鼓を中心に激しいつづみの音で凄惨な地獄を表現。その他尺八、能管、三味線、十七絃琴を使用。
 第三楽章 怒り 作曲常磐津文字兵衛
 平和公園の多くの慰霊碑には遺族の祈りが続く。祈りは悲しみに、激しい怒りに変わる。時刻は無限。
 音楽は太樟、中樟、地唄、細樟の三味線を主体に、被爆者の心に深く沈潜する怒りを表現する。なかでも義太夫三味線の竹沢弥七と長唄三味線の名手杵屋五三助の掛け合いは二度とないといわれた。
 第四楽章 鎮魂 作曲今藤政太郎
 全楽章を通じて長十郎が監修
 夜に入ると爆心地を流れる元安川で死者の霊を送る灯籠流しが行なわれる。午後10時広島の夜は終わる。
 音楽は被爆詩人峠三吉の詩『人間を返せ』から取り、観世栄夫、今藤文子の独唱から合唱へ広がる。三味線、琴、尺八、笛、打楽器などすべての邦楽器を用いる。
 タイトルの『朝顔』は被爆の翌年夏「75年は草木も生えない」といわれた爆心地の一隅に咲いた朝顔の花から名づけられた。
 また番組には、はじめに木島則夫の約60秒の解説だけがつけられた。
 明治百年記念芸術祭に参加、日本テレビから系列19社に放送された。
 音楽は世界の言葉。英語版を制作し、遠くスペインのオンダス賞コンクールに参加、異国のテレビ界に邦楽交響楽を鳴り響かせた。

 ドキュメンタリー
  『ある夏の記録』

   昭和42年度民放連盟賞報道社会番組金賞
   1968年イタリア賞20周年記念特別賞
 原爆ドームの永久保存工事がはじまったのは昭和42年4月10日。被爆して以来20余年も風雨にさらされたままだった。
 広島大学工学部の佐藤重夫教授の調査によると、焼けただれてもろくなったレンガ塀にはいたるところに亀裂が走り、その長さは約30キロ。保存工事は、全体を接着剤で固めるという結論だった。
 地元局として工事のすべてを記録することにした。何せ小さなローカル局。すでに『百日紅の花』の制作準備を進めており人手が足りない。報道記者寺本宏身とカメラマン三浦克己の二人を担当として工事現場に貼りつけることにした。工事の過程を追うだけでは単なる科学番組になる。原爆病院に入院している被爆者の闘病生活を合わせて追ってみることにした。
 寺本と三浦は毎日のように工事現場に通い、原爆病院では患者や病院の承諾を得て撮影にかかった。ただ患者は固定しないで複数を選んだ。その中に最近入院したばかりの坪川和子さん(当時33歳)がいた。
 炎天下、ドームのレンガ塀には30センチ間隔で約5000の穴があけられた。接着剤は最新のエポキシ樹脂、穴の一つ一つに総量12トンが注ぎ込まれる。
 和子さんは小学生の頃被爆したが、至って元気に成長。国鉄に勤める夫と結婚、3人の女児に恵まれ幸せな5人暮らしだった。入院から一ヶ月後に胃ガンの手術を受け、ひとまず成功したと思われたが、病魔は深く食い込んでいた。
 その頃、市役所では工事費の財源が問題になった。エポキシ樹脂はセメントの200倍という高価な代物である。浜井信三市長が街頭に立って募金を呼びかけたところ反響は大きく全国から募金が送られてきた。
 4ヶ月にわたった工事が終ったのは、祈念式典直前の8月5日。亀裂のすみずみまで化粧し新しい鉄筋で支えられたドームは面映ゆい表情を見せていた。
 和子さんの病状が悪化したのは7月下旬。医師の手厚い治療が続いたが、8月10日夜、夫や娘に看取られて短い生涯を終えた。病院では、撮影の間に27人も亡くなっていた。
 番組は構成松山善三、ナレーション高峰秀子で一応出来上った。
 このままで放送してよいものだろうか。遺族や原爆病院の重藤文夫院長にも見て頂き意見をうかがった。重藤院長は「もし批判が出れば私が説明します」とまで言われた。院長も被爆者の一人だった。
 全国からの募金は、130万人、6000万円にのぼり、市の予定額をはるかに越えた。ドームの保存工事完成を全国に報告するのも地元テレビ局の役目ではないか。会社幹部と相談して「放送を希望するテレビ局には系列を越えて、無償で提供する」と呼びかけた。当時の48民放局のうち30局が放送してくれた。完成から放送まで約4ヶ月をかけての決断だった。
 翌年の全国民放大会では民放連盟賞報道社会番組の金賞に選ばれた。英語版も作り、世界のテレビ界で高い権威を持つイタリア賞コンクールに参加、20周年記念特別賞を受けた、賞金100万リラ、当時の日本円にして58万円が送られてきた。そのうち20万円は原爆病院に寄付、広島テレビが志を残額に添えて45万円を3人の遺児の教育資金として成長するまで銀行に寄託した。

 ドキュメンタリー
  『碑(いしぶみ)』

   昭和似年度芸術祭優秀賞
   昭和44年テレビ大賞優秀番組賞
   45年度ギャラクシー賞
 平和公園の本川沿いに旧制県立広島第二中学校の大きな慰霊碑が立っている。あの朝爆心から500メートルの地点で被爆したー年生322人と先生4人の霊が眠っている。
 『碑』の企画を提案したのは報道制作部長の薄田純一郎だった。被爆した1年生が入学するのと入れ違いに卒業した先輩だった。専門学校に入り、広島市から約35キロ離れた大竹市の軍需工場に動員されていた。被爆の知らせを聞いて広島市の実家に歩いて深夜たどり着いた。
 市街は壊滅し盛んに燃えていた。多くの死者、負傷者が倒れており、原爆地獄をじかに見た一人だった。
 彼は『碑』を思い立つと遺族全員に調査書を発送し回答を求めた。直接聞き取りにも出かけた。約半年かかって226人から返信がきたが、残り96人は家族が全滅したり、消息不明で調査書は返ってこなかった。
 一年生の作業は建物疎開の後始末だった。家を出た時から被爆までの様子も詳しく書かれ、家に戻り着いた者は60余人だけだった。被爆から5日目の11日朝、最後の一人が好きな軍歌を父に歌ってもらいながら死に、広島二中の1年生は全滅した。調査書は貴重な記録になった。
 『碑』は、制作薄田純一郎、構成松山善三、ナレーション杉村春子、撮影竹村峰信、演出杉原萌ですぐに制作にかかった。
 古代の伝承に重要な役割を果たした語り部を現代に登場させる構成である。東洋工業(現マツダ)にある大スタジオを借りた。遺族から送られてきた少年たち一人一人の顔写真をパネルに作成、舞台の背景に掲げた。その真ん中で広島の母に代わって杉村さんが切々と語り続けた。そして語り終わった瞬間に背後の少年たちのパネルが崩れ落ちる。息を飲む一瞬だった。
 番組は芸術祭に参加、日本テレビ系列23局にネットされた。系列外からも要望があって、国内では独局で放送。海外からも希望があり、デンマーク、スイスのテレビ局でも放送された。
 テレビ番組に収容しきれなかったぼう大な調査資料が薄田の手元に残ったが、彼はそのすべてを一冊の本にまとめた。『碑』はポプラ社から出版され今も多くの生徒に読まれている。
 その後も芸術祭にドキュメンタリー『光と風の生涯』『原爆遺書』『今日も空は晴れているか-原爆裁判』『悲しみの終わるときまで』『家路』が続いて参加した。
 (写真提供尾川邦治氏)
 筆者略歴昭和21年、中国新聞入社、後に読売新聞。27年、読売記者として壊滅した広島の復興を眼前に見る。37年、広島テレビ創設に参加。編成、営業、報道制作、営業局長などを歴任し専務。平成4年退社。大正13年生。