民放・NHK共同建設
       名古屋テレビ塔物語
井澤 慶一(CBC)
 名古屋テレビ塔は、昭和二十九年(一九五四年)六月十九日に完成、翌二十日に開業した。とりあえず地上八十五米の展望台に客を容れて、放送の方はニカ月後の八月二十二日NHK名古屋総合テレビ(3ch)が出力10kwの電波を発射した。
 高さ百八十米、テレビ電波発射の塔と観光塔を兼ねたこの塔は全国初のものであり、当時東洋一と騒がれた。
 昨年(平成十二年)十二月に出された『中部日本放送50年の歩み』の中に「名古屋テレビ塔建設」(昭和二十八年)として短い記述が掲載されている。
 〈テレビ放送を実施するためCBCはNHK、愛知県、名古屋市、財界と共に名古屋市中区神楽町にテレビ 塔を建設することになり六月十五日テレビ塔株式会社を設立、九月二十九日起工式を行った。総工費二億四千万円、翌年六月に完成した。〉
 当時NHKと民放の共同建設、と聞いて驚く人が多かった。昭和二十六年民放ラジオが放送を開始、折からの特需景気の後押しもあっていきなり里一字という驚異の発展を見せ、NHKサイドでは民放を商業放送とアナウンスしその対抗策に神経を使っていた時期であった。
 そんな時に名古屋に於いてテレビ塔を共同建設する、株式会社へ資本、役員を入れるというのはどういうことなのかマスコミの話題となったものである。
 そこでこのテレビ塔の開業に当って民間、NHK両方の代表格といえるお二方の開業メッセージをパンフレットから拾ってみる。
 まずテレビ塔株式会社初代杜長の神野金之助さん。
 <この地方に二つのテレビ放送の許可が出たことを喜ぶものである.テレビの電波の性格から考えますと 一ヶ所から放送される方が受信者にとってよりきれいなテレビジョンが見られますし経費の点からもはる かに節約され…(中略)…
 一方アンテナを支える鉄塔を利用して色々な科学的施設を加えればお域を戦災で失った名古屋市民に とって新しい名所となるという一石二鳥の狙いで県・市の協力により名古屋市の中心部の緑地帯に… (後略)>
 
これに続いてNHK会長古垣鉄郎さんはつぎのような祝辞を寄せている。
 <中京の空を摩するテレビ大鉄塔が着工以来九ヶ月を経て完成したことは誠に慶賀に堪えません… (中略…)NHKといたしましても建設の当初から技術陣をあげてご協力申し上げて参りました(後略)>
 これらお二人の祝辞を見る限りではNHKと民問の共同建設に関してはサラリと書かれているだけである。だがその内実については時代という加護はあったにせよ、中京財界の合理主義、倹約精神が大きく作用していることがみてとれるのである。

 
誰が首に鈴をつけたか

 NHKは昭和二十五年、放送法により社団法人日本放送協会を解散、特殊法人日本放送協会として新たに発足したが、その定款では民問企業への出資は禁じられていた。しかし名古屋テレビ塔に関してはその禁が破られた。
 そこで果してNHKの首に誰が鈴をつけたのかという疑問がある。
 この問題をみる場合に忘れられない一人の人物がいる。その人こそNHKの首に鈴をつけた人であろうと推定され、今やそれが定説となっている。
 その人は前記した神野金之助氏で、彼は、大正十四年に東京、大阪、名古屋一二大都市に私企業としてのラジオ放送局が出来た時の名古屋放送局理事長であった。翌年それらが合併して社団法人日本放送協会と衣替えした時には理事・東海支部理事長となる。
 以後、戦前戦後を通じ理事職にあり、テレビ塔創建時はNHK経営委員一委員長事務代行一の要職にあり、片や名古屋財界の重鎭として、名鉄電車社長、商工会議所会頭であった。
 名古屋にテレビ塔建設の声があがった時、商工会議所を中心とする名古屋財界の意向は、その合理的精神から、NHKと共同建設すべきであり名古屋城と並ぶ観光塔であるべしというものであった。
 更に名古屋の戦災復興計画の推進者である田淵寿郎名古屋市助役らは、そのためには市の中心部の緑地帯を提供してもよいと考えていた。この動きを察知賛同した神野氏は、自己の職務を通してNHKの古垣会長ら最高首脳部を説得し法のウラをかく方法まで考え出した。その方法とは現金による出資を回避して現物出資という形式であったのである。
 昭和二十八年発足の名古屋テレビ塔株式会社の役員名簿によると役員構成は次のようになっている。
 代表取締役社長神野金之助、常務毛利崇広(NHK浜松放送局)、取締役佐々部晩穂(CBC社長・松坂屋副社長)、以下村岡嘉六(大隈鉄工所会長)、佐伯卯四郎(日本陶器社長)、井上五郎(中部電力社長)、磯部鎌一名古屋商工会議所専務理事、近藤重幸NHK名古屋放送局長、佐藤義夫CBC副社長ら、監査役には三輸常次郎(興和化学社長)、伊藤次郎左衛門(松坂屋社長)、鈴木亨一(東海銀行頭取)、顧問に桑原幹根愛知県知事、小林橘川名古屋市長。
 名古屋の財界・官界を網羅した豪華な顔ぶれでありNHKとの完全融合版ともなっている。テレビ塔株式会社としては開業以来社長をCBCとNHK出身者が交替でつとめ現在はCBC出身の平山又(オサム)氏が八代目社長をつとめている。
 資本構成はNHKは自社のアンテナ部分(四千万円)を現物出資の形をとり、CBCも、開業当初と異なる現在ではNHK同様四千万円の現物出資としている。これに県、市が各二千万円、一般一財界一四千万円の計一億六千万円となっている。

 観光塔としてのテレビ塔

 テレビ草創期には東京に三本のテレビ塔が林立していた。最初NHK、ついでNTV、・TBSがそれぞれ近くの丘陵地にペンシル型の塔を建てテレビ専用波を発射していた。大阪地区は生駒山という最適地があり各社それぞれがテレビ塔を建設していた。名古屋では初のテレビ観光併用塔となったわけである。建築設計は当時最高の権威であった早大の内藤多仲教授を中心に、建築には竹中工務店他が当り九ヶ月の短時日に仕上げた。全体の構想としてパリのエツフェル塔をイメージし下部は四角構桁角立型になっている。後にその地下を名古屋地下鉄及び名鉄瀬戸線が走ることが予定されていたので特別の配慮がなされている。
 地上百八十米、鉄塔部分百三十五米、アンテナ部分四十四米、脚間三十五米、展望台は地上八十五米(七十坪)、二百人が収容できる。
 なお放送という特殊目的から耐震、耐風には特に留意され、震度7、風速60米に堪える設計で、昭和三十四年に東海地方を襲った伊勢湾台風の秒速50米の強風にビクともしなかった。
 戦災復興担当の市の田淵助役は、市の中心部の緑地帯を提供できたという満足感から、建設途中の段階でも工事用エレベーターに乗り、満足そうな顔をされていたという。
 ところがこの塔は法律上何なのかという問題が出てきた。通常の建造物であれば緑地帯の条令に反し不法建築となる。そこで色々考えられた末これは工作物つまり電柱と同じものとして許可することとなった。
 現在この塔からのテレビ電波の発射状況は次の通りである。
@NHK総合3ch(昭29・8・22)
ACBCテレビ5ch(昭31・12・1)
B東海テレビ1ch(昭33・12・24)
CNHK教育9ch(昭36・9・4)
D名古屋テレビ11ch(昭37・4・1)
 なおこれ以後誕生した中京テレビ(35ch)とテレビ愛知(25ch)は収容の余地もなく、かつUHFであるために東山に新テレビ専用塔を建設した。
 全国のトップを切って名古屋テレビ塔は観光塔ともなったが、八十五米の展望台に上ろうとする観光客は全国から大ぜいかけつけた。
 その頃からテレビ塔に勤務している酒井正司さんによれば、一時問待ちの切符売場、ようやく三階までたどりついたら今度は展望台行に乗り換えなければならず、警備やら誘導する度にお客さんに叱られ通しだつたという。
 私もこれに似た経験をパリのエッフェル塔で経験した。切符を買うのにやはり一時問、三階まで上ってさらに上に行くエレベーターを待つのにそれ以上かかると聞いて私は断念したことがある。その時私の周囲からはフランス語は聞こえてこず、聞くのはドイツ語、英語、スペイン語、それに私には見当も付かない外国語ばかり、全世界からお客が集ってくるのだなという感想を持った。
 記録によると、開業十カ月目に百万人突破、十年後の昭和三十九年には一千万人、昭和五十三年に二千万人、平成十年七月十八日にはついに三千万人を突破した。
 だが最近になって市内にこれを上回る高層展望台ができたため漸次入場者は減少する傾向をみせている。テレビ塔側としては、初日の出などイベント及び土産物店の充実、食堂の団体客受入れサービスの強化など各種対策を練っているのが現状である。
 
 さて今後の展望は?

 昨年12月から始まったテレビのデジタル革命は今後ますますその範囲を広めてゆく。デジタル化によってチャンネルがふえ、高画質、高音質さらにインタラクティブ、つまり、一方通行の従来の放送形態は双方向のものに切り替わってゆく。データ通信はじめ各種のサービスも加わり、一方、受像機の大型化、液晶やプラズマ方式による画面の平面化、あるいは双方向化によるクイズやテレビショツピングプログラム、又データ放送の充実等々で発信側も受信側も大革新の時代となる。
 東京、大阪、名古屋地区では二〇〇三年に地上波がデジタル化され(当面、放送はアナログ波と並行)、ついで二〇〇六年には全国がデジタル化される。永年親しまれてきたアナログ放送は二〇一一年に打切りとなる予定だが、事態はまだ流動的である。
 
デジタル化に伴い当然今とは違った電波塔が必要となるが名古屋の場合、名古屋テレビ塔にはこれを装置できる余地は無いので、目下NHKを含む五杜が新電波塔建設に躍起となっている。五社が注目していたのは中京テレビ、テレピ愛知が現用している電波塔に近い同じ東山公園地区である。ところが環境問題がうるさく、春にテレビ局が委嘱した調査グループは中間報告として、白然環境を守る会等が反対している点について、反って現在の荒地が整備されること、電磁波の悪影響も殆んど影響無しと発表した。しかし五月になって、名古屋市はテレビ局から提出されていた東山地区建設願いを拒否した。公園地内にこの種の建設は認められないとする法の問題と、近傍地区住民から提出され一万人以上の反対署名を附した建設反対請願を採択したのがその理由である。このため新テレビ塔建設に望みをかけていたテレビ五杜は急遽次の策を講じなければならなくなった。
 名古屋以外の東京地区では都内に二〜三カ所の民間による建設提案があり実現可能の線が見えてきたそうである。大阪地区に於いてはアナログテレビ開始時と同様生駒山上に新塔を建てるための問題は無いようである。
 では名古屋テレビ塔は今後どうなるのか。平山社長及びテレビ塔開業以来一貫して勤務し、現在常務取締役、"テレビ塔の主〃といわれる中村信行さんにズバリ聞いてみたお二方は「さあー、どうなりますか」と苦笑い。当面状勢待ちといったところらしい。ただ市の方としては観光塔としてもっと活用できないかと考えているようだし、地域商店会関係者も集客源の一つとして再生策を考えているようである。現用中のアンテナ部分は東京タワーと同様デジタル電波塔の予備アンテナにしたらどうかという考えもあり今のところ模様眺めというのが正直なところである。流行のことばを借りればテレビ塔老化の介護策如何といったところであろう。

 
  丼澤慶一氏略歴
   中部日本新聞社、中部経済新聞社を経て、昭和26年、中部日本放送へ。
   制作局長、報道局長、常務取締役、CBC映画社社長などを歴任。
   平成元年退任。名古屋演劇ペンクラブ顧問。エッセイスト。