ボランティア活動

「老いのゆくえと自分さがし」スウェーデン紀行(余録2)

〜 高齢者介護の現場を訪ねて 〜   妻 井 令 三

老人ホームをホテルに
 カルマル市街地を横目に、バルト海に架かる7キロの橋を渡ってアーランド島に着く。この島は東西20キロ、南北200キロという長細い形状で横たわっている。その橋の道程からは、はるかに海に突出するように構築されたカルマル城の威容を望む事が出来る。島の橋の袂から北に向って数キロ走り、海の見える小高い丘の斜面にあるホテルに着いた。2階建ての落ち着いた雰囲気の建物である。フロントの質素さにもかかわらず各部屋の広さや、しつらえも申し分ない仕様になっている。フロントの左手の奥にレストランがあり、
その奥手のサロン風のゾーンでは食後の団欒をゆったりする事が出来るようになっていた。そこで、ソファーに身をうずめながらビールやワインを友連れに、私たちもその日の見聞や夫々の思いのあれこれを、日の入りの長いスウェーデンの時間の流れにゆだねて語り合った。そうした時間の揺らめきは、私の日頃の日本での生活に絶えて久しいものであるように、ふと思ったりもした。
 この居心地のよさを確かめるように翌日フロントの人に聞くと、ここはかって老人ホームであったものを数年前にホテルに改修して使っているものだという。 おそらく各部屋の広さから、2人部屋などとして利用していた事や、近隣の生活社会からやや隔絶した立地などから老人ホームとしての役割を終え、ホテルに転用されたものであろう。   介護の歴史を経て、老人をどんな状態になっても一人の尊厳を持った生活者として位置づけて処遇する施策の変化の反映がここでも伺えた。
 しかも、こうした造りの良い建物というハードを壊すことなく資産として、新しく生かそうとする文化の確かさを垣間見た思いがした。
マイカー使用は50万キロ・・・!?
 バスの運転手兼ツリーストのベニーさんの運転は堅実そのものだ。行き交う車の殆どがサーブやボルボなどの自国車やワーゲン・ルノー・プジョーなどの1000〜2000CCクラスの小型車であるのを眺めながら、「大きな排気量の車は余り多くないですね・・・」と聞くと、「普通の暮らしにそんなに大きな車が必要ですか・・・?」とやや反論めいた口調である。「車は生活の道具で、年間平均5〜7万キロぐらい乗るのですから生活にあった効率よいものでいいでしょう」とも言う。「日本では、10年ぐらいで10万キロも乗れば買い換える人が一般的ですよ・・・」と言うと、「10万キロぐらいから調子がでてくるはずなのに・・・」と不思議そう。
 私自身もヨーロッパ車に乗ってみて感じることは、道具に対する考え方やもの造りの思想が違うのではないかと日頃感じていた。耐久性自体も随分と違うようだし、様々なアクセサリーは必要なもの以外は施されていない。しかし椅子の質感や長時間の疲労防止などの人間工学的な措置に格段の良質性を体感している矢先であった。概観のデザイン自体にもアキが来ないのである。
 あるグループホームで重度の痴呆の方がリクライニング式のシンプルな車椅子に乗っておられるのに目が行った。介護専門職の方に聞くと、これは"優れもの"で世界的に定評があるとの事だが、注文しても中々手に入らないとのこと。そのメーカーの姿勢は、年間何台と決まっていてそれ以上は、いくら急かされても大量生産しないのだという。良質のものをきちんと永続的に社会に出す基本姿勢を崩さないのだそうだ。古来日本でも真の製造者は、"儲けさえすればよい"とする人達ばかりではなかったはずだと反芻する。
画家アッキさん
 カルマル市に着くと一人年配の目の優しそうの年配の男性が乗り込んできた。面識があるのか佐々木先生や篠崎さんと親しげな握手を少し気恥ずかしそうにしただけで空いている一番前の端の席に座った。それとなく聞くと、カルマル市の老人福祉の要職にある女史のサポーター役をかって出ている人で、本業は画家だという。
 施設や市役所などを回る間も、もの静かに我々の後を付いてこられるが、時折側にいるとこれを見ろと指差して我々が気づかぬしつらえ物などを口数少なく教えてくれる風情は気負いがない。
(左)アッキさん (右)運転手のベニイさん

その彼には珍しく「この島の私の別荘にある日本庭園を見てくれ」と主張した。"別荘""日本庭園"と聞けば、一同の関心は一気に盛り上った。ただ、原さんだけがニヤニヤとした顔付だ。
村の狭い路地を入ってこじんまりとしたしもた屋風の平屋が彼の別荘であった。彼は別荘には目もくれず、まっすぐ裏庭にむかった。その一角に彼の"日本庭園"が2坪ほどの仕様で作られていた。皆の顔にえもいわれぬ失望感が流れたように見えた。シンメトリーでない構成と小さな池、小さな石甕のような石器が日本を表しているぐらいなのである・・・・・・?おそらく写真や画集などで想像したであろうアッキさんの"日本文化への限りない憧れ"を瞬時に嗅ぎ取り、いじらしいほどの純粋さを感じた。ふと、私は無性に彼の絵の作品を見たくなり、自宅を訪問したいと要望した。
翌日、カルマル市内の平均的なアパートには描き蓄えている絵と共に、SONY製のビデオ編集機とVTRカセットが積まれていた。画家でありビデオのソフト製作者であったのだ。若年の作品で寒村の寂れた農家と木を描いた素描を所望し、お布施のような指値で頒布けてもらった。それは今、我が家の居間にかかっている。
別離の時、皆が熱い抱擁の嵐で彼に応えた。
バルト海の風とダーラナの木造馬
スウェーデン南東部の港湾都市カルマル駅がら10分ほど公園に沿うように歩けば、バルト海に突出するように威容を誇る城にでる。 聖天祭の休日をはさんでカルマル市界隈に三日間滞留した私は、そのカルマル城に3回も足を運んだ。4隅に見張り塔を配した堅牢な砦で、当時は海に向って砲身をバルトの海に向けていたに違いない大砲が8基公園に向け観光用に座っていた。城塁の上を周遊しつつ、重いバルトの風にさらされながらバイキングたちが跋扈した中世のこの地の歴史の変容に思いを巡らしたりした。
               カルマル城の一角

そこより駅の反対側にある博物館でバルト海アーランダ島沖に沈没していた近世の戦艦クローナン号の引き上げ陳列を見たときにも、北辺に近い貧地のこの地域では海辺こそが富の領有争奪の世界であったろうとも推し量った。途中の公園で、短い夏の日差しを楽しむ10人余の乙女達が輪を囲んで歓談する姿や、ベンチに腰掛けてのんびり語らう老夫妻の姿を眺めながら散策した。
旅の終盤、中央部に位置し、スウェーデンの故郷といわれるダーラナ地方の宿に滞留した。僻村の奥に琵琶湖の3倍という湖を見下ろす夕景は晴れという天恵もえて、限りなく美しい時間の変容をもたらしてくれた。
            ダーナラ地方の湖畔の夕景

また、そこのレストランのまだ二十歳前ともおぼしき素朴ながら清楚な姿の美しいウエイトレスに目を見張るなど、思い出の華を添えてくれもした。それらは、土地柄や地形は違っても、私の育った山奥の幼少の頃に過ごした自然の営為と乙女達の飾り気のない気配とも重なって見えていたのかもしれない・・・。

旅の土産物にと案内されたこの地の素朴な木造の馬は数少ない手工芸品で、村人たちが作っていた。営々と昔からの伝統作業を続け、質素にその地に根付いて生活する人間の営みの豊かさを、老いの入り口で発見した旅でもあった。
                   (了)       (2002/8/26 掲載)