あの日・・・あの頃
 忘れられない、あの匂い
蜂の巣城攻防戦取材記    民放クラブ63 岡崎 幹雄(RKK)
 熊本に民放テレビが開局したのは昭和34年(1959年)だった。
 それまでわずか2人だけのRKK報道課にカメラマン、ライトマン、現像マンなど、マンと名のつく新人を入れて、10分のローカルニュースを放送することになった。
 テレビは時の寵児だった。そこで働く全員は毎日が楽しくて楽しくてといった感じで走り回っていた。私は、その輝けるデスクだった。
 明るく35年は、熊本にとって百年に一度というほどの事件の当たり年となった。
 年明け早々、前年秋からチッソと漁民が対立を深めていた原因不明の奇病が、はじめて〈水俣病〉という名でクロiズアップされ全国の注目を浴びはじめた。春には、労働争議上かつてない三井三池の大争議が始まる。
 大分との県境には、室原知幸さんを城主とする〈蜂の巣城〉が聾えていた。ダム建設をめぐる国と地元の対決。公共の利益と称する事業を優先させるか地域の環境保全を選ぶか今も続く構図だが、ダム建設に反対する室原さんとその同志たちがダム地点に建てた砦である。
 秋には熊本国体に全国から取材陣が押し寄せ、これが終わったと思うと次に総選挙。暮れにはキャバレーの火事で14人が焼死という大惨事が全国向けの大ニュースとなった。
 全県を縦横に走り廻された。その場所がいずれも鹿児島、福岡、大分との県境にあり、挨っぽい砂利道をポンコツ車で休む間もなく走り続けた。カメラはフィルムー本=2分40秒のネジ巻きベルハウェル。VTRなど勿論ない時代だ。取材から本杜
に帰るや、現像、編集、オンエア、急いで飯をかきこんで次の取材へ。これが報道課員の日常だった。
 若かった。だから出来た。因みに私自身、この年に休んだのは365分の2日だった。
 中でも忘れ難いのは〈蜂の巣城〉の攻防である。
 数次の交渉は物別れに終わり、国が強制撤去のために一斉攻撃を開始という緊迫状況になった。建設省の作業員が大挙して川を渡る。河岸に張りめぐらされた柵に手をかけた。その瞬間、鬨の声とともに天上から降ってきたものは!火野葦平の『糞尿譚』ならぬ砦の命ウンを賭けた黄金の雨であった。変色した紙もろとも頭上から舞い降りてきた。千早城の再現である。臭いなんてもんじゃない。目も口も開けていられない。攻撃側は一目散に回れ右。退却あるのみとなった。
 当然のこと、カメラマンも同様の洗礼を受けることになる。
糞尿を頭から被ったものもいた。沸き上がる守備側の喚声。時間がたっても匂いは消えない。乾燥した茶色の塊がファインダーの横にこびりついて鎮座していた。
 前線基地にしていた杖立温泉の湯は、その夜、例えようもない異様な匂いに満ちていた。
 ほんのささやかな昔の、手作業のニュース制作のひとコマである。
 皆さん『あの日あの頃』の想い出を沢山お持ちだと思います。
 原稿をお寄せ下さい。