トルコを旅行して
                                       亀山寿志 (RSK・OB)

  去る6月下旬から7月初めにかけて、トルコに行ってきました。トルコといえばトルコ風呂とか、トルコ石、トルコ絨毯などが我々の知るところですが、何よりも歴史上忘れることの出来ない国です。エジプトやギリシャと同様、遠く紀元前何世紀にも亙って栄えた文明発祥の地の一つともいえる国なのですから。特にアジアとヨーロッパの境目に位置し、両大陸の文化の橋渡しにも寄与したところです。
今回、私は某広告代理店(支社長)をリタイアしたF氏と、ある新聞広告から安い旅行企画を見つけ、急遽一緒に参加することにしたものです。
イスタンブールからトロイ、ベルガマ、エフェソス、パムッカレ、アンタルヤ、コンヤ、カッパドキア等々トルコの西部の主な地区をバスで周遊し、最後にイスタンブールに帰るという13日間でした。
トルコは国民の99%がイスラム教徒です。ですが他のイスラム国とは異なり、完全に政教分離して如何なる宗教をも受け入れています。またこの時期は、実に暑いシーズンだったのですが、湿度が低いせいか日本の暑さとはやや異なり、それほど暑さは気になりませんでした。

さてイスタンブールの空港に到着して先ず驚いたのは、トルコのインフレでした。空港の両替所で1万円を両替したところ、何と1億2350万リラ(TL)も手渡されました。話には聞いていましたがあまりにもひどく、これでは百万という単位が如何に価値の低い数字かと呆れさせられました。百万TLがたったの80円程なのです。

ところで、出発点のイスタンブールはかつてコンスタンチノーブルと言われたところ。市の中心を黒海とマルマラ海を結んで南北に貫くボスポラス海峡で二分され、西がヨーロッパ、東がアジアと一つの市でありながら二つの大陸に跨っています。 

歴史的にはローマ時代、ビザンツ時代、オスマン朝時代と2千数百年にわたって夫々異なった時代の有為転変を過ごしたところ。
街の中ほどにはボスポラス海峡から金角湾が切れ込んで街はさらに北と南に分かれ、何処を見ても実に美しい街です。海峡と金角湾の全てを見渡せる位置にトプカプ宮殿があり、その西南にはキリスト教とイスラム教が混在するアヤソフィアが、そしてその隣にイズニックタイルで有名なブルーモスクが建っています。あちこちにモスクが見え、昼間でもイスラム教のコーランの声が聞こえてきます。

次はトロイに行きました。ギリシャの詩人ホメロスの叙事詩イーリアスに描かれたトロイ戦争で有名なトロイの木馬のあるところです。この地に集落が出来たのは紀元前3千年というから5千年も昔のこと。
遺跡は9層にも集落が堆積し、栄えては滅び、出来ては消えるという時代の繰り返しがあったところです。トロイ戦争は7層の頃らしく、近くに木馬の模型が展示されていましたが、それは思っていたよりも小さいものでした。面白いのはギリシャ兵が木馬に隠れて城内に入り込み、夜陰に紛れて火をかけトロイを打ち破ったというのに、木馬の模型には窓がついていました。

この後アレキサンダー大王の死後ベルガモン王朝として栄えたベルガモへ行き、さらにトルコ西部最大の遺跡群が眠る古代都市エフェソスを訪ねました。紀元前11世紀頃からのもので、古代遺跡の崩壊したもの、修復されたもの、数ある遺跡群の中私が興味を感じたのは、世界最古の広告と称して、古代の道路の敷石の上に掘り込まれた足型があったことです。
単に左の足型とその側に不明確な線画があるだけのものですが、それが近くの売春宿を紹介したものだそうです。売春宿自体は今は石組みの壁だけで、それらしきものは残っていないのですが、その前にはケルスス図書館と呼ばれる見事なファサードが修復されていました。
当時も図書館に通うと見せかけて娼館に立ち寄った輩が多かったのかも知れません。

歴史の宝庫エフェソスから、石灰棚で有名なパムッカレに立ち寄りました。温泉の石灰分からまるでスキーのゲレンデのような石灰棚が出来、世界遺産に指定されているところです。石灰棚を臨む丘の上にはベルガモン王国時代の遺跡ヒエラポリスが広がっていました。

ところで我々がトルコを訪問したのは丁度ワールドカップの終盤、日本がトルコに負けた直後でした。トルコ人はサッカー大好きの国です。我々が地中海に面した南の都市アンタルヤに到着したのは6月28日、午後3時半ごろ(日本時間9時半頃)でした。
バスで市内に入ると人口60万の市にしては人通りが妙に少ないのです。丁度ワールドカップのトルコ対ブラジルの準決勝戦の真っ最中でした。街中の人はテレビの観戦に夢中だったのです。だが残念ながらトルコは敗退しました。
たかがサッカー、負けてもどおってこと無いと私は思っていました。だがサッカー王国の人は一寸違いました。ホテルに着いて市内見物にぶらぶら出かけていると、メイン通りに車体に落書きをした数台の乗用車が、ドッと走りこんで来て道の真中に停車。数名がトルコ旗を振りかざしながら奇声を上げ始めたのです。回りの若者も同調して、そこから後方のメイン通りは忽ち渋滞してしまいました。後に続くタクシーや先を急ぐ車の利用者にとっては真に迷惑。数名が若者を制止すべく前方に駆け寄って来ました。ところが暴徒達は、トルコ敗退の鬱憤をぶつけるかのようにその連中を取り囲んで、殴る蹴るの乱暴を始めたのです。一寸した暴動です。パトカーも駆けつけ数名のお巡りさんが、鎮めに入ったのですが殆どなす術もなく、しばし傍観。幸いにして長くは続かず大きな混乱にはならなかったのですが、サッカーの敗退と彼等の鬱憤のはけ口はとんでもない結果をもたらせました。トルコ人の熱しやすい性格の一端を見た思いでした。
ところでアンタルヤの近くアスペンドスには、紀元2世紀に建てられた水道橋の跡とか古代劇場が立派に残っており、劇場では今もなお定期的に演奏会や催しものが開催されているのには驚きでした。

我々はこの後、イスラム教神秘主義の一派メヴィレヴィー教団の発祥の地コンヤを経由して、アナトリア高原の中心に広がる奇岩で知られたカッパドキアに到着しました。奇岩の中の教会に残された膨大なキリスト教壁画や、地下数十メートルも掘り下げられた地下都市など、歴史と自然の豊富な顔を持つトルコ最大の観光ポイントです。
バスから最初に見た奇岩は正にキノコ岩で、あまりにもユニークな形が本当に自然のなせる技かと、思わず絶句するほどです。
ゴツゴツした奇岩群があるかと思えばにょっきりと突き上げるキノコ岩。よくもこれだけの不思議な地形が自然に形成されたものと、ただただ感心するのみでした。こうした地層は数百万年前に起きた近くのエルジェス山の噴火によって造られたものだそうです。
この地方では今も岩を掘りぬいて住居として生活している人も居り、その中の一軒を訪ねる機会をもつことが出来ました。家の中に入って見ると岩の中とは思えないほど、明るく岩壁を漆喰や板で囲い、調度品もテレビや本棚など変らぬ家財が並び、快適な生活が覗えました。だがこのような生活も岩が崩壊の危険にさらされるところが多く、年々移住する人も多いようです。

カッパドキア地区から北方にボアズカレというところがあります。ここは史上初めて鉄器を使用したというヒッタイト人がこの地に王城を築いて王国を造ったところです。紀元前18世紀というので4千年近く昔のこと。
ハットゥシャシュと呼ばれるヒッタイト王国の首都で、今は当時の神殿の土台とか、周囲の城壁にライオン門やスフインクス門など門が残っているだけですが、ここでは幾つかの粘土板が発見されています。エジプトとの戦いで当時のエジプト王ラムセス2世とヒッタイト王との間に交わされた平和条約で、それが世界初の条約になるそうです。
 私は今年の1月、エジプトに旅をしたときヒッタイトと戦ったラムセス2世のカディシュの戦いの壁画をルクソール神殿やアブシンベル神殿の内部の壁面で見ていたので、大変興味が湧きました。


最後の訪問地は、中世の建物が多く残り、街全体が世界遺産に登録されているサフランボルでした。黒海のやや南に位置した小さな街で、白い壁とこげ茶色の木枠で出来た家は、確かに趣のあるところですが、全体が古いためか便利さを全て捨て去り、古さのみを愛でるという感じの町でした。
ここからイスタンブールまでは黒海の南を通る高速道路で4〜5時間の距離。9日振りにイスタンブールに帰ってきました。バスの全走行距離3200キロ。トルコの西部の主だったところを巡ってきたのですが、やはり何といってもイスタンブールの華やかさ、その歴史の重みに勝るものはないように思えました。初日に見過したシュリーマニエモスクとか昔の貯水槽である地下宮殿、さらにトプカプ宮殿の後を引き継いでスルタンの宮殿となったドルマバフチェ宮殿、さらにガラタ塔等々を見て回り、最後はボスポラス海峡のクルーズ船をも経験しました。

トルコは近代化の遅れから所得水準は低く、経済の行き詰まりからインフレに喘いでいます。物価も日本の3分の1位でしょうか。いまEUへの正式加盟を願って鋭意努力中ですが、はたして成るかならぬかは微妙なところです。
だがそのベースとなる西欧化への基礎作り、1923年の共和国革命を成し遂げたケマル・パシャ(トルコ共和国初代大統領)は偉大な人物であったと改めて思い知った次第です。彼はアタテュルク(建国の父)と呼ばれ、国民の敬愛の的としていたる所に銅像が立ち、紙幣の全てに彼の顔がのっています。彼が居たからこそ政教分離も文字のアラビア文字からラテン文字への転換など、他のイスラム国とは違ったヨーロッパ志向の近代化を目指す行き方を示すことが出来たのでしょう。


今回はパックツアーだったため殆ど自由行動が無く、世界三大料理の一つといわれるトルコ料理も心行くまで十分に堪能すると言うところまでは出来ませんでした。だがトルコは実にいいところです。明朗で親日的でフレンドリーな国民性は誰からも好かれるでしょう。もし次回訪れるチャンスがあれば、是非違った見方で経験したいと思いながら、そして開放的で友好的な国民性に名残を惜しみながらトルコを後にしました。
                                                                     以上  (2002/8/27 掲載)