コラム

 

  『放送こぼれ話』を書いて下さい
仲間同士で飲み屋で話し合う思い出話は、民放クラブの会員ならどなたも沢山お持ちだと思います。編集委員会にお手紙やFAXをして頂ければ紙面の状況に合わせて掲載したいと考えています。よろしくお願いします。
                         (編集委員会)
       放送こぼれ話し  民放くらぶ第59号 2000.9月
   舞扇

 その昔、ドイツ、バイエルン地方に取材に行ったときのハラハラドキドキした思い出である。
 ミュンヘンから80キロばかり南に下った小さな田舎の村の結婚披露宴に招待された。私たちTBCのチーム四人で話しあい、新郎新婦のお祝いにと日本から持参した舞扇をプレゼントした。
 この一本の舞扇を花嫁はいたく気に入ったらしい。祝福に村の娘さんたちがやってくると、その都度、扇を開いて見せびらかしている。それはそれで微笑ましい光景なのだが、それを私たちは遠くのテーブルからハラハラしながら眺めていた。舞扇を開く手つきがなんともあぶなっかしいのである。
 プレゼントしたときに、扇の開き方もちゃんと教えたはずなのだが、花嫁さんも友だちの娘さんたちも、見ていると、扇をまるで反対の方向に力任せに引っ張って開こうとしている。
 舞扇は紙と竹の華著な芸術品である。娘さんとはいえ、農作業で鍛えたであろう腕は、私たちの腕よりはよっぽど太い。あの太腕で力任せにやられては折角の扇はひとたまりもなく壊れてしまう。
 披露宴には、村の老若男女が百人以上も押しかけてきた。その揚げ句真夜中まで楽隊とダンス。おまけにビールはガブ飲みする。これがバイエルン風の披露宴なのか。
 とうてい最後までおつき合いはできず、私たちは途中で退散することにしたが、朱色の扇面に金色の桜の花を描いてあったあの色あざやかな舞扇、はたして宴が果てるまで無事に形をとどめていたのやら…。(萬)
 
      
  
OBの発言 放送こぼれ話
(民放クラブ・53号)
   不親切なテレビ・20年の怠慢  大留明夫(TX)
 

 テレビの討論番組やワイドショー を見ているといつも思う。出席者の 名札が、カメラ位置によって当人の 前からずれてしまうことがある。
  画面中央では田中さんが口角泡を 飛ばしているが、名札は三人手前の 中村さん。顔は知っているが名前を 知らない学者や知識人、タレントの 場合にマゴマゴする。有名な人のよ うだから、聞くのも恥ずかしい。誰 がどれほどいいことを言っているの か、誰がどれほど馬鹿なのか!分か らないのは困ったもんだ。タレント に左右名前入りの帽子をかぶらせる わけにもいかないか。
  旅番組やニュースに地方の紹介が ある。アナウンサーは最初に紹介し ているのだが、これに乗り遅れると、 一体何処だか分からない。ドラマで も最初に配役のテロップが出てくる が、終わったあとはさっさとCM
  途中から見ると気になった役者や監 督の名前は分からずじまいだ。
  テレビは活字媒体と違って一瞬を 逃すと後戻りは出来ない。テロップ の活用とか、コメントの工夫とかで 視聴者にもっと親切な、理解を深め る放送が出来ないものか。ひどく傲 慢、やりっ放しな気がする。
  こう書いてきて何か変な気がして きた。この批評は、20年前に、新聞 から放送局にみえた現民放クラブの 中川会長が口を酸っぱくして言って いたのとそっくりなのだ。20年直ら ない「何か?」は何なのだろう。
   もく星号発見!寝坊の効用     小柳 章三(QR)
  あれは、わが杜が開局してすぐの 頃だった。戦後初の民問航空機事故 で全員死亡という大惨事だった。
  昭和27年4月9日、羽田発大阪行 の日航機もく星号が無線連絡を絶ち 行方不明となった。新聞、ラジオは 一斉に色めき立ち、日航本杜に急行 した。場所は今の銀座の日航ホテル がある所で木造二階建だった。
  夜が更けるにつれ、関係者の顔に 苛立ちの色が濃くなる一方、未確認 のまま情報が流された。ラジオ東京 の当夜のニュースは朝日新聞の担当 で《もく星号は東京湾上に不時着、 横須賀の米軍艦艇が救出に向かって いる》という。これに対して、共同 通信から、同機は舞阪沖に不時着し、 数名の生存者がある模様で《漫談家 の大辻司郎さんが助かり「大変こわ かった」》というような談話までが 配信される始末だった。
  だが、伊豆大島三原山のビーコン と交信したあとは消息を絶ったまま で、搭載燃料から計算すると事態は 絶望的であるとの判断が支配的だっ た。日航本杜は、ニュースを聞いて 駆けつけた家族や報道関係者でごっ た返していた。夜中の12時を過ぎて ようやく、日航側が明朝早々に捜索 機を飛ばすという事になった。
  ひとまず局に帰り、明朝の捜索機 に乗る準備を終えると、仮眠をする つもりで宿直室で横になったが、昼 間の疲れで寝込んでしまい、なんと 目が覚めたときは捜索機出発時問の 20分前。真っ青になって羽田に急い だが、捜索機は予定どおりに離陸し てしまった後だった。一時は呆然と していたが、気を取り直して空港室 長室に行った。そこでワケを話して 空港長の中尾さんと話をしていると、 一時問位過ぎた頃だ、突然、一人の 若い職員が飛び込んできた。「見つ かりました。やはり大島です」。
  反射的に目の前の電話機を掴む。 「大島三原山噴火口の束方Xキロに もく星号らしき残骸を発見」。8時 40分頃だったと思う。これを見て中 尾さんは困惑した表情で私に言った。
  「今、制空権はすべてアメリカ軍が 握っています。この情報は、捜索機 が横田基地に打電したものを羽田で 傍受したものですからそのつもりで 扱って下さい」。
  この第一報は8時50分〃只今入り ましたニュース"として流れた。
  因みに、NHKもラジオ東京も、 横田基地の正式発表の後だったので 臨時ニュースは9時10分頃相次いで 放送されたと記憶している。
  私は寝坊してQRの第一号特ダネ を掴んだことになったという次第で あった。
       水害は忘れた頃に  澤田 良平(RCC)
一九八○年代のある12月のこと、 当時、私はRCC技術管理部に所属 していた。RCCテレビ黄金山送信 所は標高二百メートルの南区黄金山 町にあり〃事件"はそこで起きた。 送信機が〃水浸し"となり、あわや 《長時問完全停波》の大事故寸前と なった事態があった。
  東京などいくつかの大都市を除け ば、どこでもテレビ送信所は山の上 で、眺めはいいが水がない。その頃 のテレビ放送は、技術的制約から"水〃 がなければ、電波も出せない時代だった。白家発電のエンジンが水冷の船舶用であったり、送信機のテスト に必要な《疑似空中線/ダミー・ア ンテナ》(4chの電波・音声併せて 出力12・5Kwの熱が発生するのを水 で冷やす装置)を使用するため、水 は、まさしく〃いのちの水"だった。 凍結を防ぐために、冬になるとエン ジンやダミー・アンテナにポンプで 水を循環させていた。
  その日も、部長は例年のように私 に声をかけた。「澤田君、すまんが そろそろ山の水が凍りそうじゃけん ポンプを廻そうや」。
 冬晴れの黄金山からの眺めは抜群 である。瀬戸内の海と広島の市街が 一望に広がっていた。これも給料の 一部と作業も弾む。水槽内異常なし水位も正常、循環ポンプも快音をあ げている。退局前に本杜に連絡をと 二階の送信機室に入った途端、事態 が一変していることを発見した。
  部屋は一面水浸し。送信機裏の床 から水が吹きだしている。ケーブル の束が走る配線ダクトも水浸しだ。 送信機冷却用送風機に水が入れば高圧電源がショートして送信機は完全 に破壊される。だが、手のつけよう がない。転がるようにしてポンプだ けは停止させ電話に走った。「ありったけ のタオルやボロ布を持ってき てくれ、いつ停波するかわからんが、一人ではどうにもならん」。
 夕方のラッシュアワーが救援の邪 魔をする。
 それから5時間あまり、生きた心 地など何処にもない"水〃との戦い が続く。いつ停波するかも知れない 4chのモニター受信機を振り返りつ つの作業。まさしく、間一髪の幸運 で〃拭き掃除"が終了、事故は回避 された。
 原因は単純明快だった。その夏に 更新した《ダミー・アンテナ》は、 〃空冷式"だったのだ。それなのに 不要となった水冷式のパイプの口を 塞ぐのを忘れていた。まさに〃水害 は忘れた頃にやって来た"。
TOPに戻る