民放研報告書
『2000年の放送ビジョン』の頃
伊豫田康弘(NAB)
                                 
 「『2000年の放送ビジョン』作成の頃を、差し支えのない範囲でいいから、書いてくれないか」―会報編集長から頼まれてしまった。何かとお世話になっている先輩からのお話とあっては、引き受けざるを得ない。ただ、私がこれから書くことは、ほんの10年前のことだ。時の流れが速い世の中とはいえ、10年前というのは時期尚早の感がなくもない。文章中に登場する人物も全員、現役で活躍中の人ばかりであり、〃昔語り〃には鮮度が良すぎる気もする。
 そこで、まさに当たり障りのない範囲で書かせていただくこととしたい。予め、お許しいただく次第である。
 とはいえ、本格的な多メディア・多チャンネル時代が始まり、加えてデジタル化という難題に直面し、地上波民放の経営が厚い雲に覆われようとしている今この時期に、民放連研究所(民放研)の『2000年の放送ビジョン』報告書を出した当時のことを思い返すのも、そう無駄なことではないかも知れない。苦しく長いマラソンは、既にスタートしている。
ランナーはえてして、進行中のレース展開の流れの中に巻き込まれ、スタート前に頭の中で行ったシミュレーション展開を見失いがちである。熾烈なメディア間競争というマラソンを走る民放の関係者にも、同じことが言えるのではなかろうか。もし、そうなら10年前、『2000年の放送ビジョン』報告書が出た当時、民放が置かれていたメディア環境、民放各社があれこれ構想した経営対策、ネットワークレベルで確認しあった共同対応、目標等々を、もう一度今の時点で思い返してみることも、必要ではないだろうか。
 
  『2000年の放送ビジョン』報告書
 当クラブ会員の方は、年齢から考えて、1991年に民放研が発表した同報告書をご記憶の向きも多いと思われるが、番組制作や報道現場などにおられた方には、縁のない存在だったかも知れない。ちょっと堅苦しい内容になってしまい恐縮だが、どんな報告書だったのかを知っていただくため、さわりだけご紹介しておきたい。
 報告書のもととなった〈2000年の放送ビジョン〉研究は、民放研が89-90年度の2ヵ年計画で取り組んだ研究テーマである。当時の研究所長は東山禎之氏。研究は、所長の指揮の下に、主任研究員だった私が取りまとめ役をつとめ、所員全員(と言っても、所長以下総勢6人の小所帯だったが)で取り組んだ。
 86年にNHK衛星放送の実験放送が始まった。89年には本放送を開始、民間のCSも打ち上げられた。放送界はいよいよニューメディア時代の到来が現実のものとなってきた。NHKが将来の経営不安を見越して、グループ企業の整備拡充を強力におし進めていたことも、民放の不安をかきたてていた。
 ただ、その不安は、掴みどころのないものだった。現在のように多メディア・多チャンネル時代の姿がある程度鮮明な形で現れている状況とは違い、まだ先の展開が不透明だった当時、何とか乗り切っていけるのではないか、という思いも一方にあった。つまりは、漠とした不安と淡い期待が交錯するような状態だった。それだけに「先を見る」予測に対する期待も、強かった。
〈2000年の放送ビジョン〉研究は、そうした民放界の状況を背景に企画し、取り組んだテーマだった、
〈95〜2000年の放送産業全体の構造とその中における既存民放の経営動向予測〉と、の予測を考察の前提においての〈民放経営の課題〉、また、〈ありうべき放送行政への提案〉の三項目を研究の主目標に設定した。90年6月に中間報告書、91年5月に最終報告書を提出した。研究作業は、民放各社の経営幹部、他メディア関係者、メディア研究者に対する数次にわたる質問紙調査〈エキスパート調査〉と視聴者調査の結果をべースに、民放研が長年継続実施してきた広告費予測データに基づくシミュレーション結果などを総合して行った。既存民放の経営予測に関しては、かなりシビアな予測結果となった。
 中核部分は、次の2点である。
  放送広告費が前年比5-6%増と堅調に推移した場合でも、95〜2000年には地上波民放の広告収入の伸びは衛星放送チャンネル数(広告放送を行うものを含む)の増加により著しく鈍化し、年平均でテレビ、ラジオとも3%増前後にとどまり、98年以降の収入は横ばい、ないし前年割れとなる可能性が高い。その結果、NHKや衛星放送、CATVなどすべての放送産業収入に占める地上波民放の収入シェアは、95年時点で68。1%、2000年時点で54.4%にまで落ち込む。
 2 97年の「BS4」体制完成を境に抜本的対策を講じなければ地上波民放の利益率は大幅に低下しFM社がかろうじて黒字を持続する以外、2001年には赤字基調に転換する。

  民放界は冷静に反応
 
 報告書の反響は、大きかった。蓋し、当然であろう。今にして思えば当時はバブル経済の真っ只中。民放テレビもラジオも、すこぶる好調な経営状況を続けていた。87-90年のテレビ営業収入の前年比伸び率の推移は、87年=9.9%増、88年=10.3%増、89年=12.7%増、90年=8.4%増という状況である。ラジオの営業収入も概ね同じような推移を見せていた。
 そんな好況に沸く時の、この報告内容である。既述したように確かに不安は誰しも大なり小なり抱き始めていた。衛星放送時代がやってくる。シビアな競争時代が、やがて始まる。だが、民放にはこれまで培ってきた経験とノウハウがある。だから今みたいな右肩上がりの収入増はないにしても、そこそこの収入増は望めるに違いない。民放関係者の大方の思いだった。
 しかし、この報告書そのものに対する民放関係者の反応は、私が知る範囲では、意外なほど冷静であった。実は、われわれスタッフは報告書を発表するにあたって、各杜から相当の批判、お叱りが来ることを覚悟していた。少なくとも、主任研究員という立場からスポークスマン役をつとめる私は、覚悟せざるを得なかった。「どうして民放研は、こういう民放にとってマイナスな予測を公表するんだ。これでは、ニユーメデイア関係者を勢い、づけるだけではないか」とか「制作や営業の現場で働いている人間の士気を削ぎかねない」、
「NHKの商業化に拍車をかけることになりかねない」、「民放研は現場の苦労をしたことがないから、こんなお気楽な研究ができるんだ」等々、いろいろな批判・抗議を浴びせられるものと覚悟した。東山所長は立場上、もっと深刻だったに違いない。報告書提出前の1、2ヵ月間、不眠不休でコンピューターに向かってシミュレーション作業に没頭した青木研究員以下の所員も、同じだったはずである。
 ところがそうした心配は、ほとんど杞憂に終わった。批判がましい声は聞かれず、むしろ「よく勇気をもって、発表してくれた」「経営対応を検討するうえで、よい研究をやってくれた。参考になる」といったお褒めのことばばかりが、研究所に寄せられた。実際には、「よけいなことをしてくれたもんだ」と、苦々しく思っていた関係者もいただろう。だが、そうした声は、民放関係者の問からは、表立っては聞こえてこなかった。個人的な友人で、民放研をよく知っている幾人かに、「あんな悲観的な報告書を出して大丈夫か?」と、わが研究所の立場と私個人の立場を心配する向きはあったものの、それはまったくの杞憂であった。報告書提出から半年あまり、スポークスマンとして民放各社に出向き、あるいは社員研修会などの講師として出席し、忙しいけれど充実した日々をすごしたことが、思い出される。

 将来予測は歴史からスタートする

私が民放研に籍を置いたのは、81年から92年までのあしかけ12年である。この12年間の民放研生活は、今から思うと、まさに〈2000年の放送ビジョン〉を研究するためにあったようなものだった。現に、私の民放研所員としての仕事は、事実上この研究が最後のもので、92年の1年間、機関紙『民間放送』の編集長を担当した後、民放連を退職し、大学生活に入った。『2000年の放送ビジョン』報告書を出すために、私の研究員生活はあった、と言って過言ではない。
 こうした仕儀となったのは、ひとえに私を研究所に引き入れた野崎茂氏のお陰である。民放研は「またの名を野崎研究所と言う」と言われたように、野崎さんは62年9月の開所以来、民放研の育成、発展に中心的な役割を果たした功労者であることは、つとに知られている。私は、その野崎氏(私が研究所に移った当初は、副所長格で、二年後に所長となった)と、研究所に移る直前まで携わっていた『三十年史』編纂時の上司・新名一将氏の〃画策"で研究所入りとなった。36歳の時だった。新参研究者としては少しトウが立ちすぎていたが、広報の時代からあちこちの雑誌や新聞に駄文を書き散らして少々天狗になっていた私を心配したお二人が、おそらく「あの野郎は、野崎研究所で鍛え直さなければろくな者にならない」と〃談合"されての結果だったろう。
 研究所に移ってまず私に与えられた研究テーマは、〈メディア間秩序の研究〉だった。テレビを中心とする戦後30余年の日本のメディア史を、文章ではなく、一種のフローチャート形式で描こうというものだった。時代背景、その時々の社会相をベースに、新聞、出版、映画、ラジオ、テレビそれぞれが織りなす相関関係と、その関係が形成してきたメディア問秩序を研究するという内容である。この研究の経験が、後で思うに、その後の私の民放研での仕事の基盤になっただけでなく、まがりなりにも現在大学で研究者生活を続けていられる基礎を与えてくれた。その意味で、私にとっては大変貴重な研究だった。何よりも、研究の基盤は歴史にあり、将来予測の研究も、歴史からスタートするということを身をもって認識させられたことは、貴重だった。今でも「歴史から学べ」が、大学の講義での私の常套句になっている。

 すべての研究は「2000年」に通ず
 
この後、83〜84年度の2ヵ年にわたり『新放送秩序の研究』を、85〜86年度には『放送産業の将来』研究を、担当した。
『新放送秩序の研究』は、報告書の副題〈変容する放送体制をめぐってのシミュレーション〉が示すとおり、『2000年の放送ビジョン』の第一部とでも言うべき研究だった。2000年前後の放送産業の構造を、〈複合の時代〉〈多チャンネルの時代〉〈利用者の時代〉〈競争の時代〉という4つの〃時代イメージ〃で描出しようという研究である。野崎所長と2人で、時代ネーミングに、ああでもないこうでもないと検討し合った。とくに放送と通信の統合的将来像を表すことばを、《融合》とすべきか《複合》とすべきかでは苦労した。結局2000年時点では《融合》は速すぎる、まだ放送と通信がそれぞれの固有の存在を保持している、という観点から《複合》に落ちついたが、時代のコンセプトと、それを的確に表すキーワードにことのほか気をつかった記憶がある。
 この研究では、民放各社の経営トップ、大学その他の研究機関のメディア研究者、放送制度研究者など、われわれがメディア・エキスパートと呼んだ人たちへの質問紙アンケート調査の設計に最も多くの時問と労力を費やした。上記四つの時代イメージの具体像を構築するための基礎的資料をエキスパートの方々から可能な限り頂戴しよう、という狙いがあったから設問は極めて専門的かつ広範な内容にわたった。「回答にこんな骨の折れるアンケート調査は初めてだ」といった怨嗟の声があった一方、民放の何杜かからは、「役員の勉強にもってこいの素材だから、取締役会を開いて全員で検討している。だから、回答期限を少し延ばしてくれ」といったありがたい反応もあった。回答者の皆さんは期待した以上に、真剣に応えてくれた。
『放送産業の将来』研究は、視聴者のメディア利用状況の全体的な把握をもとに、将来のメディア・多チャンネル時代における視聴者のテレビ視聴行動の姿を考察しようというのが、狙いだった。『新放送秩序の研究』が、どちらかと言えばメディアの送り手の側からの将来考察であったのに対し、『放送産業の将来』は、受け手の側から考察を進めてみようというものだった。
 この研究では、家庭のテレビ受像機の所有台数が2台以下の視聴者と3台以上の家庭の視聴者の間で、テレビ視聴行動とテレビメディア評価がさまざまな点でガラリと違っているることを知見として得た。3台以上の人のほうが、テレビ視聴量が多く、テレビの話題を家族や友人間でよくし、番組やCMを日常生活に利用する意識も高いなどの特徴が抽出できた。そこで、この研究の報告書は〈テレビ複数所有時代の視聴行動〉というタイトルを付けて発表した。
 『放送ビジョン』の意義
 この二つの研究内容からも、察していただけるように、私が民放研で携わった研究は、述のごとく、すべて『2000年の放送ビジョン』につながるテーマだった。なかには、個人視聴率問題(ピープルメーター導入問題)を扱った〈視聴質研究〉のような、どちらかと言えばアド・ホックな研究テーマもなかったわけではないが、研究の大きな流れは、そうだった。これすべて、野崎氏の長期的かつ緻密な研究スケジュールによるものである。私は、その予め敷かれたレールの上をただひたすら走ったわけである。
 それはさておき、『2000年の放送ビジョン』は、単に民放研ないし私個人にとって重要な意味をもつだけでなく民放界全体にとっても意義ある研究だったと思う。地上波のテジタル化とインターネット,携帯電話の、今見るような普及状況、バブルの崩壊に伴うかくまで深刻な長期不況こそ、当時のわれわれの視野には入っていなかったもののこの研究でわれわれが描いた放送業界の予測図は、基調においてそんなに的外れではなかったような気がする。
 ただ、ここでわれわれが示した予測図の現実符合度を云々することはさして意味のあるものとは思われない。われわれが提示したのは、あくまで可能性の問題であり、蓋然性が認められる将来像の一つを示したにすぎない。重要なのは、ここに紹介した『新放送秩序の研究』などの研究の成果の上に積み上げた『2000年の放送ビジョン』が、衛星放送がスタートし、CS放送の登場を間近に控えた、あの時期に出されたという事実である。この原稿を書くにあたって、両報告書を読み返して思ったのは、毎度毎度かくも七面倒くさいアンケート調査に、多忙な人たちがよくも回答してくれたものだということだ。今の私なら、「多忙につき、回答はパス」としかねない調査だった。
『2000年の放送ビジョン』の報告にわれわれが抱いた問題意識と研究の必要性が、多くの放関係者メティア研究老に共有されていたのである。危機感が共有されていたのだ。だから、それぞれの立場から、真剣に回答していただけたのだと思う。そうした状況下での回答作業は、(私が言うべきことではないが)それなりに民放各杜のその後の経営対応に有効な材料となったのではないか。とにかく報告書に対して、各社の反応、対応には真摯なものがあった。各社の研修会やシンポジウムに出席した時、一種の熱気のようなものが、伝わってきた。
 今、多メディア・多チャンネル化はいよいよ進み、デジタル化という難題も加わった。在京在阪のキー局はともかく、経営資源に乏しいローカル局は大変な経営的苦境に立ち至っている。環境変化の奔流の中に、ともすれば我を見失いがちである。見失ったら、ダメージは倍化する。今この時点で、『2000年』研究でわれわれと多くの回答者が試み、共有した長期的展望と総合的対応の視点を、もう一度思い返してみるのも、決して無駄ではなかろう。

  伊豫円康弘 民放連研究所主任研究員、
        『民間放送』編集長を歴任。放送メディア研究。現在、
        東京女子大学現代文科学部教授.マスコミ論、放送論。