★ 政権に危機意識 全く無し!
                     「日本丸」は何処へ
                                                             時評03・春
 平成十五年度予算案の編成にあたり、国の税収が大幅に落ち込む見通しとなった咋年末政府税調は十分な審議も経ずに、配偶者特別控除の廃止をいとも簡単に取りまとめ、政府に答申した。
廃止の理由として挙げているのは、共働きの家庭の主婦に比べて専業主婦にだけ控除するのは不公平だから、というもので、論拠も展望も全くない。
この配偶者特別控除はそもそも専業主婦の家事や育児に対する労働の価値を認めたもので、対象者は1千万人超にものぼる。
これにより、夫婦と子供2人の標準家庭では年間平均で6万円程度の増税となり、不況やリストラで収入の展望が見えない
サラリーマンや年金生活者の家計を直撃することは必至である。
安易に取りやすいところから取ろうとする政府は、更にささやかな庶民の愉しみでもあるタバコと発泡酒の増税を決める等
かねてから、十分な時間をかけて検討されるべき抜本的な税制の見直し論議には程遠い内容のものとなった。
 こうした増税論議に追い打ちをかけるように、塩川財務相は「若者が懸命に働いているのに、今の年寄りは、ええめばかりみている。
少々、年金を下げてもかまわん」と発言して、デフレで物価が下落していることに連動させる物価スライド制を急遽導入し、年金をO.9%引き下げることを決定した。
また、平成14年12月の失業率が、最悪の5.5%となったことをどう思うか、との記者の質間に「経済状況が非常に良い方向に向かっている表れだ」と語り、後になって別の数字と見誤まったと失言を訂正したが、国の経済のかなめ、財政の中枢である財務大臣が、確たる見通しや展望もなく、思いつきの発言をくり返す等、如何に緊張感に欠けて国政にあたっているか、如実に露呈したものといえる。
 小泉内閣は国債発行額三十兆円枠を守ると公約したが、最気が悪くて税収が予想を大幅に下まわり、補正予算を組んだ。
補正後の国債発行額は三十五兆円で、日本国の借金は七百兆円となり、これに更に十五年度予算の国債発行額三十六兆円が上乗せされる。
小泉首相が構造改革を宣言して2年が経過したが、ほとんど改革は進まず、デフレ不況が深刻さを増している。
 この2年間で平均株価は4千数百円下落し、02年の企業倒産は最悪の1万9千数百件にのぼリ、失業者は過去最悪の348万人、個人の自已破産を認定された者は21万5千人に増大した。将来に明るい展望の全く見えないデフレ不況の下では、リストラや所得への不安から個人消費も伸びず、モノが売れない状態が続いている。
 国民には安易に増税を押しつけ、サラリーマンや老人の医療費を値上げし、予算の無駄遣いには全く手をつけようとしない政府に対して、怒りの声があがっている。また小泉首相が改革案の意見書を作成しても、法案づくりを官僚機構に丸投げするようでは骨抜きにされて、経済の再生も財政の再建もおぼつかない。
つまり、官僚システムは、金太郎飴的な無責任体制によって成り立っているからで、膨大なツケがたまっていても先へ先へと延ばして、国家が破綻する日まで無責任体制は続いていく。
 このままの経済状況では、やがて、国家予算の半分以上が借金の国債にたよる状況となり、国債も暴落して国家が破綻することは必至である。 「政治家よ、目を醒ませ!」と言いたい。国民に、公約も果たせず、パフォーマンスだけの政治家はもう要らない。
国の抱える病巣の根は、より深く手強い。        <了>
                                                 2003/3 森 嶋  淳(ジャーナリスト) 
               ★ いまも残る妖しい世界
                      「橋」 も の が た リ   【歴史を読む旅】
                                                         2001.11.30  RSK・OB 十川 昭
 忙しく車の往来する橋を跳めていると、今日では、橋は単なる通過手段であって、道路の一部になっている。しかし、昔の人は、この同じところに立って、果たしてどんな思いを抱いたかと、ふと想像してみると、そこには妖しい怪奇幽玄の世界が広がってくる。
 京都の一条堀川にいまも存在する戻橋(もどリばし)は、橋がもっている不可思議で奇妙な性格を、さまざまな形で現していて、とても興味深い。
 
京都堀川に架かる一条戻橋
京都随一の魔所一条戻橋
橋の近くにあるバス停留所
にも橋の名前
この橋にまつわる怪奇譚(かいきたん)は、「今昔物語」の説話集「撰集抄」(せんじゅうしょう)に登場している。延喜十八年(918)、文章(もんじょう)博士の三善清行が亡くなった時、父危篤の報せに息子の浄蔵(じょうぞう)が、紀州の熊野から急いで帰京したが間に合わず、この橋の上で、父の葬列と出会った。悲しんだ浄蔵がこの橋の畔(ほとリ)で祈ったところ、清行がしぱらくの間、その命を取リ戻し、ふたりは語リ合うことができた。そのようすを見て、驚いた参列者が「戻橋」という名をつけたのだという。

 次に、「平家物語」の中で、茨木童子(いばらぎどうじ)という鬼が出現する話があるが、大江山の鬼退治で知られる源 頼光の四天王の一人、豪傑の渡辺 綱(わたなべのつな)が、羅生門(らしようもん)に出没する鬼の腕を切リ落とした。その腕を持って帰る途中、美女と道連れになったが、戻橋にさしかかると美女は鬼女の本性を現し、腕を奪い返そうとした。鬼は、綱をかぷとの上からつかみ上げて宙を飛び、北野天神のあたりまで行ったところで神通力を失い、綱をふり落として腕を持ち去ったという。つまリこの橋は、妖怪変化の出現する場所でもあった。
 秀吉の命によリ、大徳寺山門から引きずリおろされた千利休の木像が、堀川に架かるこの戻橋のたもとにさらされたのは、天正九年(1591)二月二十五日のことであった。古来、この小さな橋は、京都随一の魔所として、人々に恐れられていたがそんな場所を選んで利休の木像をさらしものにしたあたりにも、秀吉の利休への怒りが尋常なものではなかったことを、うかがい知ることができる。その三日後の二十八日、天下一の茶湯の者とされた千利休は屋敷内にある茶室の不審庵(ふしんあん)で、関白秀吉から遣わされた検使立ち会いのもと、茶を一服した後に。.自ら切腹したのである。
 橋が、妖怪変化の現われる場所であったリ、死者がよみがえる話があるのは、古来橋というものが、この世でもない、あの世でもない、ちょうど境目にあるという意味をもっていた、と思われる。
 能の舞台の構造が、橋懸かリといわれ、舞台全体が橋そのものになっているのも、橋の上は、あの世とこの世の境目であリ、多くの魂が寄リ集まるのに都合の良い場所といえる。つまリ、日本の芸能というものは、どこか遠くから先祖の魂がやって来て現世の人のからだに取リつくことにより、別人格となってふるまうことが芸能というものであったと、考えられているからであ各。
 橋のたもとの柳の木の下から「うらめしや…」と妖怪があらわれるなど、橋にまつわる話は江戸時代の幽霊話にも数多くみられ、昔から橋に何か超常的な意昧をもっていたようだ。
 いまも存在する京都の一条戻橋は、第二次世界大戦中まで、「この橋を渡れば必ず生きて戻れる」といわれ、出征して戦地へ赴く人はこの橋を渡っていったという。しかし結婚式には「出戻り」になるというので、いまでも、花嫁はこの橋を渡らない、とのこと。現代にも生き続ける、小さな橋の不思議な物語である。
                                   
         ★「小泉人気」は虚像への狂熱か     2001.10.1 RSK・OB 十川 昭
   無為無策が続くワイドショー政権 「検証・TVジャーナリズム」

 内閣支持率8割という数字は、それまで世の中の平均的な意見の持ち主だと思っていた我々の実感とは、全く程遠いものにみえる。8割の大衆が熱狂するさまには、ある種の恐怖さえ覚え、戦後半世紀余リが経過して、この社会は、普段の判断力を失いかけているのではないか、とさえ思えてくる。ほんの少し前までは、無党派層が増加して、世の中の価値観が多様化したといわれていたが、この狂熱ともいえる事態をみると、この社会は多様化していたのではなく、ただ不毛のあいまいさの中を漂っていて、それを何かの力で、ひとつの方向へ仕向けさせたのではないか、と思われる。その力とは、マスメデイアであろう。
 今年の三月には、森内閣の支持率は下降の一途をたどり、ついに、ひとケタにまで落ち込み、KSD事件、機密費疑惑、えひめ丸事件などの難間山積の中、野党側の追求に国会答弁もしどろもどろで、まさに死に体の様相を呈していた。そして四月、自民党の総裁選が告示され、四人が立侯補、各々の政策を街頭演説などで一般市民を前にして競い合った。メディアは、国会が開会中にも拘らず、自民党という一つの党の総裁選びの報道に終始した。しかも、この選挙に参加できるのは各地の党員などの地方組織と党所属の国会議員のみ。テレビのワイドショーやニュース番組では、あたかも総選挙の如く、四人の演説内容や主張を連日取リ上げ、一般への関心を高めていった。なかでも小泉氏の主張が、他の三人とは異なり、従来の自民党政権ではとリ得なかった「郵政民営化」や「聖域なき構造改革」を唱え、不況で低迷する経済の現状については「改革なくして成長なし」と言いきるなど、一般大衆には「分かリやすい」「自分の言葉で語る」として、人気を集めている様子を報じた。
 四月二十六日に誕生した小泉政権は、五月の運休明けから国会での与野党の論戦が始まった。総裁選で小泉人気をあおったテレビのワイドショー、今度は国会中継で、論戦のもようを運日、伝えた。それは、あたかもスターがいて、かたき役の野党がいる劇場中継の如く、小泉、田中両スターの答弁ぶリに、番組の司会者や出演者までも「分かりやすい言葉でおもしろい」と言って、ほめたたえ、関心の高さで視聴率をかせぐ。一方、野党の質間者へは、一般からの抗議の電話やメールが殺到、「政治家をやめろ!」「真紀子の足を引っ張るのか」「小泉の言うことに反対するとは、けしからん!」など、狂気ともいえるテレビジャックの様相を呈し、テレピ入気が支えの小泉政権は、いわばワイドショー政権といえる。
 国会の会期末、六月末までのほぽニカ月間の国会審議を見ていると、政策の準備不足で中身は貧弱で具体的な方策はなく、答弁は底の浅さを震呈しているにも拘らず、「改革をやれぱ、その問題は解決する」と、豪語するだけ。それを、分かりやすい言葉でおもしろい、と8割の世論が支持している、という不思議な状況が続いて、小泉首相にとっては「なんてったって、コイズミ」と鼻歌まじリの気分であったと思われる。
 国会が閉会するや、首相はブッシュ大統領が待つキャンプデービットヘ向かった。現地で、テレビカメラの前でのパフォーマンスを演じ、ブッシュ大統領から贈られたジャンパーに袖を通し、大統領とキャッチボールをして、二人の親密度を誇示し、二人の親交を深め合ったことが、会談の成果である、と強調した。メディアは、テレビニュースで小泉首相のこのパフォーマンスを伝えたが、その時、小泉首相の眼前に居るブッシュ氏と、一国の宰相として、膝詰め談判をすべき深刻な間題が、日本国内で起こっていた。
 その事件は、小泉首相が米国へ出発する前の六月二十九日の未明、沖縄県北谷町(ちゃたんちょう)で、駐留米兵による婦女暴行事件が発生した。沖縄で頻発する駐留米兵による凶悪事件の前に、またも立ちはだかったのは、日米地位協定の壁。容疑者は、捜査の結果、米海兵隊所属の軍曹と特定され、逮捕状が出たのは七月二日。たが、米国側の許諾が必要なため、日本の捜査当局が逮捕状による実際の身柄拘束が出来たのは、五日後の七月六日の夜になった。この間、地元の沖縄では、たび重なる同種の事件に、県民感情も「もう許せない!」「米軍基地を撒去しろ!」と高まリをみせ、県知事をはじめ地元から再三にわたり、目本政府に対して、協定の改訂を申し入れていた。この屈辱的ともいえる協定の見直しを提案すべき、千載一遇の機会に、「二人の間の親交を深め合ったこと」が会談の成果だとしたことは、主権国家、法治国家の宰相としての資質が間われ、また、会談とこの問題をからめて報道しなかったマスメディアも、その責任は重い。
 本来、民主主義の選挙では、それまでの政権がよかったか悪かったかを国民が判断するのが通常の姿。三年前の参院選以来、今年までに国と地方の借金はすさまじく増えたのに、名目の国内総生産(GDP)は十兆円落ち込んだ。国内景気も下降の一途をたどる等、自民連立政権の失政が七月の参院選で厳しく批判されるぺきであった。しかし、小泉首相の改革マジックで、その失政は免責となリ、逆に自民党が議席を増やす結果となった。この選挙でも、マスメディアの多くは政権批判をすることなく、小泉、田中両氏の演説を、あたかも人気タレントの如く、連日伝えて、政治の責任を負うべき与党の存在をかき消してしまったのである。
 小泉氏が政権に就くや、施政方針演説等、ことあるごとに発言してきた言葉のひとつに、靖国神社への参拝がある。「私は八月十五日に、戦没者に心からの敬意と感謝をささげる」とくり返し述べ、近隣諸国から反発の声があがると、小泉首相は「いまの日本があるのは、靖国神社に祀られている先人達があってこそだ。そうした戦没者に、心からの誠をささげて何故悪いのか」と、反論をくり返す始末。こうした発言は、靖国神社の戦前からの経緯と、戦後の国会決議をみれぱ、明らかに歴史感覚の欠如、言葉のもつ底の浅さ、政治的な言語感覚のなさを露呈したことになる。
 八月になリ、靖国参拝問題が国内外で賛否両諭が渦巻いていることについて「進むも地獄、退るも地獄」と、自分が一国の宰相であることを忘れて、他人ごとのような言葉。結局、小泉首相は外交上の何の施策も打ち出さないまま、八月十三日の午後四時すぎ、靖国参拝を強行した。これによって、アジア諸国との関係を一層こじらせたことになったが、本人は「この間題は、相手国と議論を尽くせぱ、きっと分かってもらえる」とうそぷいて、問題解決をまたひとつ、先送リしてしまった。 この靖国参拝が一カ月も前からの「熟慮に熟慮を重ねた」結果であるとすれぱ、首相の座にある者としては、首をかしげたくなる言動である。つまリ、別の考えを行動に移すぺきではなかったか、と思われる。それは、自らの信念を通すのであれば、むしろ逆説的に「八月十五日にこだわリ、その日に参拝に行けないのなら、靖国参拝を断念した」と言う方が、国内外の双方に、筋が通ったのではないか。中途半端な言動が信頼を失ったのであって、一国の宰相としての言葉の重み、発言に、もっと責任をもつべきであリ、この事が、「改草なくして成長なし」と、くリ返し豪語する小泉首相の言葉にも、その実行性が疑わしくなってきた。
 八月下旬になると、株価は下がリ続けて、連日、今年の最安値を更新、一刻の猶予も出来ない程の経済指標が示されても、首相は「株価に一喜一憂せず」として、自ら何の対策もないことを公言し、無為無策ぷリを露呈した。九月中旬、東証平均株価は、ついに一万円割れとなった。
 九月十一日に起こった米国の同時多発テロは、世界に大きな衝撃を与えた。米国ブッシュ大統領は、早々にテロに対して報復攻撃する、と言及したが、小泉首相はすぐさま「断固、米国を支持する」と表明し、日米首脳会談のため、米国へ出掛けた。しかし、この時点では、支持する内容が、何をどのようにするのか、国内でも議論が始まったぱかリで、具体性の欠けるものとなった。反テロについては、世界の各国が、宗教宗派、反米親米を間わず報復に賛同を寄せていたもので、自国のテロ対策もなく、また、集団的自衛権の行使も出来ない日本が、拙速に支持を表明し会談しても、それは単なる顔見せにすぎない。むしろ、日本だけができる具体的な後方支援策を、米国のみならず世界に向けて表明すべきではなかったか。
 テレビには、新聞の社説のようなものは、存在しないし許されていない。つまりワイドショーやニュース番組で伝える報道が、一面的な、大衆の判断をミスリードするものになってはいけない。特に、番組の司会者は、出演者とは一歩ひいた立ち場で、自已の主張を持たず、予見や偏見で出演者の発言を誘導してはならない。むしろ司会者は、中立の立ち場で視聴者の識りたいことを、出演者から引き出す役に徹するべきである。更に、局側の編集者は、「きょうの小泉首相は…」'とか、「真紀子大臣は、きょう…」と、連日、特定の政治家の動静を伝え、大衆を煽るような報道を、四月以降、数カ月間にわたリ続けていた局があるが、その局は、みずからマスメディアとしての自覚と見識を喪失した、とみられる。
                               

                   若者の生態観察
                    「少年」はいずこへ
      2001.3.21  RSK・OB 十川 昭   

"教育とは何か"を考える親は子供に何をすべきか

 いまから二十年程前になるが、われわれ年代の親たちは、自分たちの子供が小中学生から高校生の少年期だった頃で、子供と同年代の多くの少年達の姿を、特別な関心をもって見てきた。というのは、その当時、テレビに「3年B組金八先生」が登場し、「いま、中学で何が起こっているか」をテーマに、脚本家の小山内美江子が半年間、都内の中学で取材して書き上げたという、受験戦争の渦に巻き込まれた我々の家庭と真正面から向きあったドラマとして、大きな期待と注目を集めていた。ドラマの内容も高校受験をひかえた秋から冬、受験、卒業式、春の旅立ちと同時進行し、生徒の精神的いらだちを軸に、友人関係や親子のあつれき、学校と家庭との間題、進路指導、生徒の性の悩み…などを、ひとリの熱血教師、金八先生を中心に間題解決していく様子が描かれる。
 ところで、当時の親たちにとって、白分たちでは見えない子供の悩みや行動を、このドラマをみて気付いたリ、考えさせられたりしたものだ。そして、ドラマの中で問題解決のために、金八先生が考え、行動するさまは、親たちが持っていた社会規範の枠の中での、ひとつの常識と符号するものであり、子供に接する時の言葉や行動を是認するもので、自分達親の理解し得る思考の範囲内での納得するものであった。それが、当時の社会全般の規範となり、社会の常識をなぞるものでもあった。先生や親、先輩などとの縦(たて)のコミュニケーションが、まだ機能する時代であった、といえよう。
 当時の子供たちが遊びに興ずるものとしてはインベーダーゲームがあげられる。ゲーム機器は、まず喫茶店に置かれ、大人の遊びとして定着し、やがてゲームセンターにも設置されて、大人と子供が共に楽しむものとなった。一方では劇画ブームが起こり、テレビ時代に育った若者達の間で爆発的な人気を集め、従来の活字による読書の形態を大きく変えるものとなった。最初は少女向けのコミック誌に掲載された「ベルサイユのパラ」が、のちに舞台でロングランを続け、数々のスターを生み出して話題となったことは記憶に新しいところ。
 若者が熱中する遊ぴの形態は、世相のうつリかわりの中で、ファッション感覚のように推移していく。次に彼らの興ずるものとして登場したのは、ヘッドホンを頭につけて自分の好き々音楽を聞く姿であった。通学途上の電軍の中で、公園のベンチで、街の雑踏を歩きながら自分だけの世界にひたる多くの着者達が見られた。ヘッドホンで音楽を聞きながら劇画の本に眼をやるというのが、一時期、着者のファッションとして流行した。ただ、この流行、'他入には何ら迷惑をかけるものではなかった。 
 そして、いつの頃からか、ここ数年来、若者が楽しめるエンターテイメントは多くなリ、大きく様変わりした。我々の時代、娯楽といえぱまず映画、そして小説を読むことで、大人が話題にしていた作品をみて、意味がよく分からなくても背伸びして、早く大人になろうとしていた。だが、今は中学生向けにゲーム、高校生向けにアイモ一ドというように各世代向けの娯楽メデイアが細分化されていて、大人になりたいという背伸びする気にはなれないようだ。さらに言えば、携帯電話は若者の価値観まで大きく変えたのである。若者文化は、まさに携帯電話が中心となった。彼らは、携帯電話にメモリーしている同じ価値観を共有できる仲間を次々に呼び出せば、何度でも会話ができる。家で、親や祖父母と話す機会は大幅に減り、先輩や親との縦のコミュニケーションも要らなくなった。ひとリに1台電話があるわけだから、外で電話する時でも、周囲をシヤットアウトしていて、彼らはいつも個室にいるのと同じようなもの。

 このように、子供たちのコミュニケーションが自由になリ過ぎて、やリたい放題の時代になると、教師とか親とか、本来、怖くて叱ってくれる存在が入り込む余地がなくなっているようにみえる。
 ところが、彼らに怖いものは何もない、と言えば、そうではないようだ。著者の街といわれる渋谷の盛リ場や原宿で、たむろする茶髪やガングロの女子高生の言動の観察を続けていると、彼らの心の内は、むしろ不安感に満ちあふれている。眼はうつろで定まらず、宙を見たままで、動きもなにかおどおどしていて、ぎこちない。彼らは街でも喫茶店に入らないで、地ぺたに座リこんでいる。身を守るために、みんな外にいてアンテナを張りめぐらせているためで、さながら政情が不安な発展途上国の街角にみる光景に似ている。
 彼らは、自分たちの将来に不安定なものを常に感じている。我々や、我々の予供達でさえ、十代の頃に感じることのなかった不安とか恐怖感を感じているようだ。彼らは、バブルが弾けてからものごころついた世代で、親がいつ会社のリストラにあい、クビになるか分からないとか、先輩達の就職難の実態等をみていると、非常に不安定な状況に自分たちが置かれていることに気づいているのである。
 今や、ガリ勉して有名大学に入っても、必ずしも一流企業に入れるわけではなく、運よく入っても、その企業が倒産になったリ、リストラへの不安もある。受験戦争と呼ばれる時代になってからは、親から「子供は勉強して良い学校に入らなくてはならない」と言われ、子供自身も、まさに戦争さながら「昨日の友は今日の敵」として他人よりも1点でも良い成績をとることに、まい進した。以前は「末は博士か大臣か」という社会の中での立身出世コースがあって、将来へのベクトルが一つの方に向かつていた。しかし、今はバラバラになっている。
 このような価値観の崩壊が始まったのは、実はバブル最盛期であった。銀座や六本木の高級クラブで一流大学を出て数年、まじめに働いているサラリーマンが、取引先の接待で初めてこんな店に入ったようすの一方で、不動産屋とか金貸し業でがっぽリもうけている同じ歳ごろの高校率程度の企業舎弟が、ソファーにふんぞリ返って飲んでいた。
今でも、一流企業の社員よリも、ペンチャー企業の若い経営者の方が、がっぽリ稼いでいるのを見ていると、一生懸命、勉強する必要を感じなくなったのではないだろうか。今の時代、若者の価値観に、大きな変化が起きているのである。
 ここ数年、少年犯罪はますます粗暴さ、凶悪さを増し、社会に深刻な問題を投げかけている。いったい何が彼らをそこまで追い詰めてしまったのか。その原因に関しては、いろいろと挙げられるが、その一因となっているのが、家族の絆(きずな)が欠如していることである。家庭内でのさまざまなトラブルは、家族同士の居場所に原因があるのではないか、と思われる。子供にとっては、子供部屋の存在である。
 子供が成長するにつれて、親は子に部屋を与えて、周囲の雑音を避け、勉学に励んでほしい、と願う。親自身が子供の時期に果たせなかった夢、自分だけの個室で勉強したい、という願望を子に託したいのである。しかし、この子供部屋が、女優三田佳子の息子の件のように、友入仲間達と薬物を乱用し、犯罪の温床と化したのである。その部屋は屋敷内の地下にあり、外部から直接部屋へ出入リが可能となっていた。さらに、この両親は、一般家庭では考えられない程の多額の小遣いを毎月息子に与えていたようだ。
 受験戦争と呼ぱれる時代になって、「子供は勉強して、よい学校に入らなくてはならない」という理由で、明るくて一番良い部屋を子供に与えるようになった。しかも、帰宅しても家族と顔を合わすこともなく、部屋へ入れるような間取リの住宅を造った。このことを逆に言うと、よい部屋を与えておけば、親は子供に対しての責任を果たした気になり、そのあとの精神的フォローをしなくなった、ともいえる。いまは、インターネットや携帯電話などで、直接外部とコンタクトをとれるようになっている。したがって意識的に家族がふれあうための場所を作らないと、いつもすれ違いの生活になってしまう。自然に家族がコミュニケーションを持てるような家づくり、つまリ、間取リの工夫が必要で、子供と空間的なつながりがもてる夢のあるコーナーに仕切るようなことも考えていくべきである。
 建築家の横山彰人氏執筆「狂気を呼ぷ間取り」の中で、宮崎勤事件について次のように指摘している。「宮崎の父親は、小学生だった宮崎に子供部屋を与えるために、いままで、ちゃぷ台を囲んで家族が団らんしていた場所を、小さなダイニングルームにしてしまった。こうして宮崎の家からちゃぷ台は消え、代わりに家族が食事をとる場所は、テーブルと椅子のダイニングに姿を変えた。しかも六人家族にも拘らず、四脚しか椅子が置いてなかったという。家族はすきな時間にバラバラに食事をとっていた。宮崎勤は自分の部屋に食事を持ち込んで食ぺていた。
 宮崎はゴミ捨場に捨ててあったちゃぷ台を、後になって拾ってきて使ったそうだ。これは、幼いころのあたたかな家族の残像を、そのちやぷ台に見ていたからだ、と思えてくる。……」
 親と子の心が通じるようにするためには、家族の"生活動線"が、どこかで交わるような間取リにする必要がある。
 思い起こしてみると、三十年前当時、テレビにも大家族構成のドラマがヒットしていた。「ただいま11人」「肝っ玉かあさん」「七人の孫」「あリがとう」などで、我々のいずれの家庭にも茶の間があリ、家族の生活動線も必ずそこを経由して、家族の絆もしっかリと保たれていた。当時はまた、向う三軒両隣り的な家族間の温かい人付き合いが存在し、地域社会として機能していた。そこには、今の「少年」の姿などは、全く存在しなかったし、存在する兆候すら、皆無であった。

あとがき・私が、親の立場で教育を考えるようになったのは、二人の子供がし烈な受験戦争に巻き込まれた時期で、その最初は長男の中学受験に始まリ、その戦いは以後十年におよぶことになる。本文は、一介のサラリーマン家庭の苦闘の実体験を記した当時のノートや、その後も、東京渋谷、原宿で続けている若者の定点観察のようす等をもとに、最近の世情を憂い、自分の心情をつづったものである。

               ★  新世紀…
                  つれづれに想うこと

2001年1月 RSK・OB 十川 昭       

平成十二年十二月一日・BSデジタル放送がスタートし、いよいよ21世紀の本格的なデジタル放送時代の幕明けとなった。このBS(放送衛星)デジタル放送は、高画質高音質はもちろんのこと、データー放送、双方向機能を有するなど、その魅力ははかりしれない。また、この数年は、あらゆる分野で急激にデジタル化が進み、特に、コミュニケーション手段の進化はめざましく、携帯電話や電予メールの普及によって、我々の生活様式まで、大きく様変わりしようとしている。
 しかし、その一方で、音ながらのコミュニケーションも健在で、お中元やクリスマスプレゼント、お歳暮といった贈リ物は、その最たるもの。贈リ物のやリとりは、我々の日常的に行なうコミュニケーションの中では、特に礼節を重んじて行なうものだけに、マナーを心得ておきたいものだ。
 入院見舞として花を贈るときは、そこに根付くという意味で鉢植えの花は適さない。あまりに高価な贈リ物は、相手に負担を与えることになる。メ一カーに勤務する人には同業他社へ製品を贈ることは避けた方がよく、また、若い人から年長者に贈る場合には分相応の品物を選ぷべきだ。このような決まりごともあるが、贈り物の最大のマナーは受け取る相手に喜んでもらうことである。しかし、そのことが、今の時代、とても難しいことなのだ。
 物は豊かで価値観が多様化しており、自分がもらって嬉しい物だからといって、他入が必ずしも喜んでくれるとは限らない。特に、嗜好品を贈る場合はより注意が必要で、お酒を飲めない人に銘酒を贈ったリ、苦手な食べ物を贈って、相手を困らせてはいけない。自分がもらって嬉しかったからといって、自分の好みを相手に押しつけることになる。つまり、贈リ物をする場合は、自分の好みよりも、相手の嗜好や趣味、都合などを優先することが、マナーといえる。
 相手のことをよく知るためには、普段から話し合いの言葉の端々からも相手の好みや趣味などを読み取るように心がけねばならない。つまリ、贈り物をすることは、日頃のコミュニケーションの集大成として発表するようなものである。贈り物を上手く行なえば、これほど他人との距離を縮めてくれるコミュニケーションの手段はないといえる。
 一方、贈られる側のマナーとしては、親しい人から手渡された場合、その場で包みを開けて喜びを表してお礼を述べ、宅送便などで屈けられた場舎は、電語や手紙でお礼の意を伝える。更に、贈られたものを食べたリ使ってみての感想を礼状に添えるのも礼儀といえる。 このように、贈り物をする場合、相手の都合や気持ちを気遣って行なうが、携帯電話でのやりとリも、思いついたときに一方的にかけるのではなく、相手の都合や性格、生活パターンなど、タイミングを考慮すべきである。受ける場合も、時と場所を考えて、マナーボタンや留守録機能を活かして周囲に迷惑のかからないよう、気遣いながら、できるだけ早く、相手にコールバックするようにすべきである、、携帯電話などのデジタルなコミュニケーション手段を活かすには、このようにアナログな気遺いや思いやりが、より必要になってくる。