操山31会南イタリア吟行記 (PART2)
                       
                          松本 X(山麓句会 輝庵) RSK OB

 第3日目 6月8日(日)ナポリ→ポンペイ→マテーラの洞窟住居→
アルベロベッロ(コル・デル・ソル泊)

 旅行3日目の今日は、午前中ポンペイの遺跡を見学し、午後はアルベロベッロへ行きそこで1泊する日。ホテルを出たバスは、昨日に続き卵城からカステルヌオヴォ城を通り、ウオメロの丘のサンエルモ城とサンマルテイ―ノ修道院、ウンベルト1世ガレリア、王宮、サンカルロ劇場、プレビシート広場、花カレンダーなど見て、カメオ工房「ドナデイオ」に到着しました。5年前妻や友人と北イタリアを中心に旅行した時、ローマからワンデイトリップで訪れたナポリ・ポンペイの道中立ち寄ったところです。当時妻が購入した高価なカメオの製作者、マエストロ・ビンツエンツオさんが今も元気で、当時そのままに製作に励んでおり、添乗員長崎さんの説明で事情を知ったマエストロが妻を抱きしめんばかりに歓迎していました。

   麦の穂をこうべ頭にカメオの女神像(晴茶)

西暦79年8月24日正午過ぎヴェスヴィオ火山は突如大噴火。噴出したおびただしい量の火山灰により、この地の政治経済の中心都市ポンペイはすっぽりと埋まり、長い間忘れられた存在であったところ、1738年偶然発見され、以来発掘が継続して行われた結果、火山灰の下から神殿や浴場、歩道付の道路、水道、パン工房から高級売春宿まで現れ、古代ローマ時代の人々の日常生活を垣間見ることが出来るようになりました。ポンペイを語る時、よく「一瞬にして火山灰に埋まった町」というような表現に接しますが、厳密に言えばこれは誤りで、噴火のとき一旦は逃げ出したものの噴火が下火になるや帰宅した人たちも少なくないと言います。不幸なことにこの人たちを襲ったのが噴火に伴う有毒ガスでした。口を覆い苦悶の表情で息絶えた人、体を曲げ四本足を虚空に突き上げて死に絶えた犬などがその有様を物語っています。これらの石膏像は、灰に埋もれた遺体がやがて腐敗し、微生物が分解して空洞になったところへ後世石灰を流し込んで作ったものですが、そのリアルな表情には驚かされます。

  ポンペイの轍そのまま灼けており(芳茶)

  炎天下偲ぶポンペイヴェスヴィオ山(晴茶)

  ポンペイの遺跡巡るや玉の汗(和庵)
  夾竹桃今も遺跡を彩りて

  炎昼や遺跡の影の親子猫(輝庵)

  
 近くのレストランで昼食を済ませた一行は、イタリア半島東南に位置する世界遺産の町アルベロベッロに向かいました。

イタリアはよく長靴に例えられますが、この長靴は四つの海に囲まれています。右上から右回りにアドリア海、イオニア海、テイレニア海、リグリア海の四つで、長靴が蹴ろうとしている三角形の石ころがシチリア島。このほかサルデイニア島、カプリ島など大小数多の島を加えたのがイタリア全土。総面積30万1千平方キロ、日本の約五分の四。24の州で構成され、それぞれに愛郷心(カンパニリズモ)が強く、方言も堂々とまかり通っているそうです。通貨はユーロ。このツアー期間における1ユーロはざっと140円でした。

歴史を概観すれば紀元前270年頃までに古代ローマがイタリア半島を統一、のち発展拡大して西ヨーロッパの大半、バルカン半島、近東、北アフリカにまたがるローマ帝国を築き上げますが、肥大化し過ぎて395年東西に分裂。ゲルマン人の侵入で西ローマ帝国は476年(ローマは死なんゲルマン興らん)、東ローマ帝国はオスマントルコによって1453年滅ぼされます(ひとよ一夜のゴミと散るローマ)。この後フランク王国、神聖ローマ帝国を経て、12世紀以降は都市国家が乱立。イタリアルネサンスのあと1789年のフランス革命に刺激されて国家統一の機運が高まり、1861年サルデイニア王ヴィットリオ・エマヌエレ2世のもとにイタリア王国が成立。1922年混乱に乗じてムッソリーニがファシスト政権を確立、日独と枢軸を形成し連合国と戦う途中の1943年クーデターにより政権は崩壊。盟友ヒットラーのドイツ軍に救出されたムッソリーニはしばらく北イタリアで命脈を保ちますが、第二次世界大戦終結直前パルチザンに銃殺され、遺体は彼女の愛人とともに逆さ吊りされました。ファシスト政権と手を結んだ王室は戦後国民投票によって廃止され、国王はポルトガルに亡命、イタリアは共和国となって現在に至ります。

アルベロベッロへ行く途中、バスはこれまた世界遺産のひとつマテーラの洞窟住居(サッシ)へ立ち寄りました。グラヴィーナ峡谷の斜面が複雑な立体構造の集合住宅になっているのです。一帯は石灰岩で加工しやすいことが幸いしたのでしょう。ギリシャの修道僧が異教徒の迫害から逃れるため、ここに移り住んだのが始まりとされ、20世紀前半まで住居として使われていましたが、最終的にはスラム化し、今ではゲイジツカ風の人たちが面白がって住むくらいで、大半は空き家だと聞きました。

  夏草や廃墟となりし岩窟都市(芳茶)
  ういきょう茴香や岩窟都市の窓の数(晴茶)
  アマポーラ揺れるその先岩窟群(輝庵)


再び走り出したバス。イタリア半島を縦断するアペニン山脈の分水嶺を越えようとしています。車内に低く流れるカンツオ―ネ。みんないい気持ちでウトウトしていたその時、ガラガラと雹が降ってきました。フロントグラスにガチンガチンと大きな雹がぶつかっています。

 漏れ来る雹のスコールバスの中(晴茶)
 窓叩く雹に目覚めしバスの旅(輝庵) 


やがて旅行会社のパンフレットで見覚えの円錐形の灰色屋根と円筒形の白い囲いの家が緑濃いオークの林の中にポツ、ポツポツ、ポツポツポツポツポツ・・・・・と見えてきました。アルベロベッロです。バスを降り、徒歩で高台へ。とんがり帽子の屋根の乗っかった「トウルッリ」と呼ばれる家々が一望できます。でも何故こんな奇妙な家を作ったのでしょうか。「ナンデダロウ?ナンデダロウ?」。
答えは諸説あるのだそうですが、贅沢な家を持つことが禁じられていたか、家屋に税金が課されていた時代に、すぐに屋根を壊して「これは家ではない」と主張出来るように、この空積み工法が生み出されたのではないか(「地球紀行・世界遺産の旅」《小学館》)と、考えられているようです。

坂道を上り町の中心部に入っていきました。白壁の家の入り口は開けられ、みやげ物が売られています。大勢の観光客。地元の人々のイタリア語に混じってドイツ語と英語が耳に交錯します。10数年前一人旅でこの町へやってきた若い日本女性,陽子さんがここの男性と意気投合して結婚、今ではラエラ・ヨウコとして、ユネスコ クラブ ガイド兼お土産物屋さん経営者として活躍していました。「ここアルベロベッロは仙台とほぼ同緯度。夏の気温は48度くらいまで上がり、冬はツララが下がり、積雪もあります」と陽子さん。いくつもの部屋を見せてもらった後、はしご段を上りきった屋上はわずかに傾斜、少ない雨を溜めて地下に蓄えるのです。夕焼け空を無数の燕が飛び交い、教会の鐘が鳴り響いていました。

   ゆやけしてトウルリお伽の国のごと(晴茶)
   トウルリの日本人妻薔薇一輪
   ハイポーズ瞳涼しき青年と

   道筋にオリーブ咲きしおとぎの国(和庵)

   石組の白き家々燕舞ふ(輝庵)


第4日目 6月9日(月)アルベロベッロ→レッジョ・デイ・カラブリア→フェリーでメッシーナ→タオルミーナ
                     (エクセルシオール・パレス泊)

 旅も4日目。今日はイタリア半島の南東部から更に南下、土踏まずを這うようにして半
島西南部のレッジョ・デイ・カラブリアからフェリーでシチリア島のメッシーナへ着岸、さ
らに陸路をタオルミーナまで行く日。一日の走行距離としてはこのツアー最長の移動日な
のです。

    明け易し朝食前に先ず散歩(晴茶)
    さくらんぼちょいと味見の朝の道

    サクランボちょっと失敬朝散歩(和庵)


 バスは快晴の南イタリアを走り始めました。折から乾季のせいで道端の草は黄色く枯れ、
所々にアマポーラ(ひなげし、英語名ポピー)の群生が赤い色を放っています。オリーブ、
さくらんぼ、トマト、玉蜀黍の畑。高い山のてっぺんに沢山の家屋が密集し、コミュニテイ
―を形成しています。モータリゼーションの発達した現代なら快適環境でしょうが、その
昔はさぞかし大変だったのでは?
理由は二つ。一つは外敵発見と侵入防止。もう一つはマラリア対策です。そもそもマラ
リアとは「悪い空気」という意味のラテン語。マラリア病は蚊が媒介するものとは知らな
かった古代人は「マラリア(悪い空気)」が淀む低地より風通しの良い高地を好んだというのです。前回イタリア旅行した時の添乗員から教わりました。

 バスは、綿菓子のような格好をした笠松の並木道に入りました。古代ローマ人は何層も
の石組みからなる立派な道路を四方八方に張り巡らせましたが、そこに植えたこの地方の
代表的な樹木がこの笠松。強い日差しを避け一休みするには最適だったのでしょう。進行
方向左にターラント湾が見えてきました。第二次大戦中イギリス空軍がイタリア海軍保有
軍艦に壊滅的打撃を与えた所、いわばヨーロッパのパール・ハーバーです。

右側車窓には10人近くの人々による田植え風景が見えてきました。往年のイタリア映
画「苦い米」(1952年 白黒)を思い起こしました。主演女優シルヴァーナ・マンガーノの胸の隆起とたくましい太もも、黒々とした腋毛に、独立したとはいえまだ戦後の世相
を色濃く残していた当時の日本の若者たちを仰天させた、と映画関係の本で読んだ記憶があります。

   旅は今長靴の底夏の海(輝庵)
   果てしなき枯野彩るアマポーラ


 バスは予定路線をほんの少し外れて小さな町のガソリンスタンドに止まりました。「操山
31会旅行」初参加、武田秀子さんのお嬢さんのご主人の妹さんがこちらに住んでおられ、
対面することになったのです。南イタリア人らしい小柄で人の良さそうな眼鏡をかけた女
性と可愛らしい赤ん坊を抱いた美しい日本女性が笑顔で待っていました。「ワアーッ!可愛
いっ!」。大勢がどっと取り囲み、シャッターを切っていますが生後6ヶ月、日伊混血のソ
フィアちゃんは物怖じせず、ニコニコ笑って小さな手を振っていました。
「チャオ!」「アリヴェデルチ!」

 海峡の町レッジョ・カラブリアに着きました。フェリーですからバスはそのまま乗り込
みます。メッシーナ海峡を隔ててシチリア島まではわずか3キロ。その昔陥没する以前は
イタリア本土と陸続きだったのです。シチリアの玄関口メッシーナから、バスは今夜から
二連泊するタオルミーナ目指して走り始めました。高速道路の分離帯には赤や白の夾竹桃
が咲き誇り、傍らの丘陵にはオリ−ブ、ナツメヤシ、サボテン、竜舌蘭などが見られます。

シチリア(英語名シシリー)。地中海最大の島であるとともに、そのど真ん中に位置する
環境から様々な民族がこの島を狙ってやってきました。フェニキア、ギリシャ、カルタ
ゴ、ローマ、アラブ、ノルマン、フランス、スペイン。長年、異民族、異文化に支配さ
れ、それらの影響を色濃く残したこの島独特の混合文化と1年を通じて温暖な亜熱帯性
気候が古来多くの旅行者を魅了してきたのです。

 狭い石畳のタオルミーナ中心部へは大型バスは入れません。郊外の駐車場でマイクロバスに乗り換えました。両側とも土産物屋が並び観光客やバイクが行き交う狭い道をマイクロバスは進みます。マンションの窓にはすべて鉢植えの花が飾られていました。

 午後5時半、高台に位置するホテル・エクセルシオール・パレスに到着。遥か眼下の海沿いに広がるジャルデイ―ニ・ナクソス(ナクソスの庭と呼ばれる一帯)の町。前面に開けるイオニア海。遠く活火山のモンテ・エトナ。贅沢なロケーションです。人の良さそうな小柄でガッチリした体格の男が二人、荷物を降ろしにやってきました。一人は往年の名優リノ・ヴァンチュラを思わせる風貌です。

 つづいて徒歩で町中へ。レストラン、土産物屋が軒を連ねています。日本人はほとんど見かけません。ギリシャ劇場へ入りました。紀元前3世紀に建造されたこの劇場は今もなお各種イベントに使われています。テアトロン(桟敷)に座れば、イオニア海から吹き上げる涼風が頬を撫で、階段の石の割れ目に咲いたアマポーラ(ポピー)が優しく揺れていました。ここからも遠くエトナ山を見ることが出来ます。古代ギリシャ人もまた絶好の場所に人々の憩う劇場を建設したのです。
 帰り道、町の教会で結婚式が行われていました。新郎新婦にビデオを向けると、ニコリと笑顔を見せ、式の模様を撮影していたカメラマンが僕の撮影振りを撮影し始めました。

         夾竹桃笑顔明るき街女(晴茶)
         夏の日を道路狭しと踊る人
         月涼し散歩と洒落て旅の町

              演ずるは夏落日の大舞台(芳茶)

                  家に花花に蝶舞うタオルミーナ(輝庵)
                  エトナ山ギリシャ劇場夏の月
                  ここがあのマフィアの島か万花咲く

                         シロッコの吹きてシチリア結婚式(和庵)
                         血流したマフィアの故郷猛暑かな
                         新婚さん祝福の列にツバメかな
                         シロッコに匂いはあるよアフリカよ


 シロッコとはサハラ砂漠から吹くカラカラに乾いた熱風。初夏から秋口まで訪れる季節風で、シチリアではこのシロッコを利用して製塩が今も行われているそうです。

                                                 
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