ボランティア活動

「老いのゆくえと自分さがし」スウェーデン紀行(4)

〜 高齢者介護の現場を訪ねて 〜   妻 井 令 三

"壊れゆく兆しの国"を超えて
 14才少年のバスジャック事件・集団いじめによる5000万円恐喝事件・この岡山でも真備町の殺人事件やバット殴打事件など少年の理由なき犯罪がたて続けにおこっている。数年前から、宮崎誠事件や神戸の事件にその予兆は見えていたものの、その頻度は急速に顕在化しつつある。また、その裏で"幼児虐待"も増加しているという。和歌山のカレー事件や、子供や家族を対象とした言われる毒物を入れた保険金目当ての殺人容疑など、殺人事件が珍しくない世相となってしまっている。"金"ためには身内・子供まで殺すという恐ろしい事態が起こり始めている。拝金主義の世相は、"偏差値"教育の一面の所産では…?と自問する。
 また、バブル崩壊後の不況克服を大義名分として"リストラ"と称する"首切り"容認論が当然視される風潮のなかで、自殺者が三万人を超える国になってしまった。その一方で、経営者の責任追及よりも銀行や「そごう」には公費(税金)を投入してはばからない事に象徴されるように、"経済恐慌"という脅し文句を口実にそれらの救済に莫大な税金を投入する政府。
土建国家にふさわしく建設大臣が官僚ともども賄賂収賄で起訴される利益誘導型政治のあくなき蔓延。そこには政治家や経営者達為政者のモラルのかけらも無くなってしまった国の姿が浮き彫りになっている。その彼らに、この世相の退廃化を建直す資格と力量があるのであろうか…?。その下で、戦後五十余年を経てのこの世紀の末に、奇態な便宜的野合政権が、急遽「国旗・国歌」法案や「盗聴法」等の強権力法案を、平然として強行してしまうおぞましさに背筋の寒くなる思いもある。
 こうした中で、少子高齢化時代を論拠として、新たな国民負担と自己責任を前提とする医療保険改定の動きや介護保険制度、更には年金制度の改定など一連の社会保障制度の大改変が進められている。
政府や行政、産業は何のためにあるべきかが基本から問い直されなければならない。
 冷徹に歴史の視点から観れば、この国は"内部崩壊"の兆しを見せてさえいるように見える。700兆円もの大借金政策を恥じず、小手先の"IT革命"等の便宜スローガン的政策で乗りきれるた類のもので無い時代に入っているのではないか…。
 為政者と自負する人達や、あらゆる分野のリーダー達が、まさに身を律して倫理的価値の体系造りから始めない限りこの国の建直しは困難になりつつさえある。そのためには、国民自身が、そのリーダー達を選ぶ力量と監視能力を高めると共に、新しい世紀を模索する真面目な意見を正面からたたかわす姿勢が求められている。
 戦中戦後のひもじい過程を経て、時代に向っていそしんできた果てに、私達自身も"心"の荒廃は無かったか…?自分の意見を率直に表明してきたか…?を自戒を込めて問いなおしたいと思う63才の誕生日を目前にしての旅であった。

        老人の施設間のたらい回しは避ける。

ストックホルムからほぼ真西に、湖と森と畠の織り成す中を特急列車で二時間のところにあるOREBURO市に着いた。2週間の旅程の半ばに当たる6月1日(木)"昇天祭"という休日日から土日にかけ、一人外れて4日間パリに棲む次女の所に飛んでから再び一行に合流したのがこの街だ。

 そこにある「痴呆症センター」(Demenscentrum)でヒアリング中の旅の仲間に歓声で迎えられた。そこは、平野の中に福祉関連施設がしっとりと余裕を持って配置されていて、その裏にはゴルフ場もあり、それを眺めながらこの施設に"棲む"数人の痴呆性のお年寄達がテラスのテーブルを囲みお茶を楽しんでいた。
 途中からのヒアリングであるが、スウェーデンにおける痴呆症ケアのシステムの概要が説明されていた。「施設ケア」(介護付き住居)については、@サービスハウスA老人ホームBグループホームCナーシングホームの性格区分ががあり、症状のレベルによって、その人にふさわしいケア住宅に誘導するとのこと。また、これ以外に、病院として老年精神科もあると聞く。こうした区分は、一応しているものの"痴呆症"のお年寄りにとって"棲み場所"を転々と変えることは最も良くないことなので、一度入居してしまえば死ぬまで同じ所に棲むことが出来るようになったという。そのため、グループホームの"ナーシングホーム化"といった現象も見られるようだ。介護度が上昇して対応できなくなった場合に、ナーシングホーム等への移行も勿論状況に応じて対応するとのこと。要はその人の意思を尊重し状況を判断してのケアなのだ。

        集団管理から個別ケアへ…

 日本でも、痴呆介護の切り札のように最近喧伝される"グループホーム"であるが,先進的な北欧諸国の現場の実践的な介護トライアルの中から編み出されたシステムである。それは、形態上の一般家屋風の建物でのケアと言う意味だけではない。集団管理的な施設介護の過程に疑問を持ち、"生活者としての痴呆性老人"をどう介護するかという、人権尊重の視点から編み出されたものであることを見落としてはなるまい。
 その根底には、個別ケアの重要性に行きついた中で、小人数ケアを基本に職員との馴染みの関係と生活を重視した方向から産まれたものなのだと理解できる。
 勿論、一戸建てのグループホームもあるが,VASTERVIK市で見た新しい施設では八人単位×8グループ=64人の住居(施設)は、グループホームの集合体の仕様で出来あがっていた。廊下で全体が繋がっているものの各単位のゾーンは夫々に独立し、個室と共同生活フロアー・食堂があり、担当介護職員はその単位だけを専任で当たるというものだ。(ここでは、ナース12人・ケースワーカー5.5人と事務職員は統合的に対処しているようで、合理的運営が可能となっているように思われた。)
 入居者(入所者)対職員比率は1対1の比率が一般的に保障されている(日本の場合は3対1)。また、既存の集合施設も小グループ化(ユニット化)を基本に据える方向が急速に取り組まれつつある。
 この国は、福祉先進国と言われながら現状に留まらず、今なおあるべき介護を目指して変化しており、その努力をしている渦中にあるのだと直感した。
   
(5へ続く)